【花見と桜の歴史】①花見の謎、桜の罠?/②花と言えば梅?桜?/③「花は桜木 人は武士」/④花見の革命/⑤花見は幕府の陰謀?/⑥花見の完成
満開の桜の下で、人々が集まって宴会を開き、謡ったり踊ったりと春の一日をともに楽しむ、そんな光景が上野公園をはじめ、日本各地で見られます。
これは日本ならではの春の風物詩ですが、ではなぜ日本人はこれほど桜に浮かれるのでしょうか?
なぜ梅や藤ではないのでしょうか?
これらの謎を花見と桜の歴史をたどりながら探っていきたいと思います。
現代の花見は桜の花を見ながら酒盛りや余興、あるいはランチやティータイムを気の合った仲間や職場の連中と楽しむ習慣。
しかし、その由来には多くの説があります。
その主なものをあげると、古代からの日本の伝統的行事、中国由来、平安貴族の雅遊、武家の野宴というように、花見には多くの源流が見られるのです。
一方で現代の花見は、江戸時代後期から江戸を中心に庶民の花見が広まって発展したものというのが定説。
しかも江戸時代の花見は幕府によって作り出されたものとさえ言われているのです。
それでは、花見の謎を解くために、もっと詳しく花見の歴史をみてみましょう。
花見の源流のうち もっとも古いものは、民俗学者たちが見出した日本古来からの伝統的民俗行事です。
『常陸国風土記』には「諸国の男女、春の花の開(さ)くる時、秋の葉の黄(もみ)づる節、相携(たずさ)ひ駢(つらな)り、飲食(をしもの)を齎賓(もたら)し騎(うま)にも歩にも登臨(のぼ)り、遊楽(たのし)み栖遅(いこ)へり」と記されています。
このほかにも、春や秋になると人々が誘い合って山や丘に登り、飲食を楽しんだり男女が歌をかけ合わせたりする風習が、『出雲国風土記』の「燕楽(うたげ)」、『播磨国風土記』の「宴遊(うたげ)」というように日本各地でみられるものでした。
風土記に記されたこの行事は単なる物見遊山ではなく、春の農耕に先駆けて日を決めて集団で山籠もりして飲食を行う大切な行事でした。
この行事は花見や山見と呼ばれ、現在も行われている地域もあるのでご存じの方もおられるのではないでしょうか。
そして意外なことに、潮干狩りと同じ意味を持つ行事とされているのです。
それは花見が山で行われたように、潮干狩りが水辺で行われた春の祓や共同飲食の流れをくむ行事だからなのでしょう。
また、桜の花は農作業の開始を教えてくれる存在でもありました。
開花した桜は山中でひときわ目立つ存在でしたので、これを神が依りついた印とみて酒や供え物を持って山に登り、神祭りを行ったのです。
そして時代が下ると、神祭りの日を決めて行うようになりました。
西日本では3月3日か4日、関東東北では4月1日や8日に定める例が多くみられます。
現在の私たちから見ると少し意外ですが、四国や九州では花見とひな流しがセットで行われるものでした。
柳田国男は『歳時習俗語彙』の中で、奈良県宇智郡や栃木県日光近辺、秋田県鹿角地方の花見や、千葉県香取郡の花見堂などの例を挙げて、これらの春の行事が我が国の古い花見の伝統を伝えるものとしています。
さらに一歩踏み込んで、花見の本来の意味を、その年の春に咲く花を見て一年の豊凶を占うものだという説(折口信夫)や、農事開始前の物忌(ものいみ)や田の神迎えるための祭祀だとする説(和歌森太郎)も唱えられています。
いずれにせよ、桜の花が咲く時は、長くつらい冬が終わり、万物が息を吹き返す春の到来を示すもの。
だからこそ花見は自然と人間の活力が再生する行事となって、人々を浮かれた気分にしたのでしょう。
このように、花見は人々の生活に根ざした宗教的・民族的大切な行事だったのです。
これに対して宮中で行われる花見が盛んに行われるようになりました。
次回はこの中国から伝来した花見について見てみましょう。
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