前回、英邁な七代藩主長昭の藩政改革と、高島秋帆の教えがあいまって、いわば最高の状態となった仁正寺藩についてみてきました。
そして十代藩主長義の時代、いよいよ明治維新を迎えることとなります。
市橋長義(長和)(ながよし・1821~1882)
出羽国鶴岡藩主酒井忠発の弟で文政4年(1821)に生まれました。
弘化元年(1845)10月7日に長富の隠居に伴って家督を相続し十代藩主となります。
はじめは長和と名乗っていましたが、長義と改めていて、文献によって「長義」と「長和」両方の記載が混在しています。
ここでは、幕末に自身が名乗っていたことと、『平成新修 旧華族家系大成』に従って、「長義」で表記を統一します。
ペリー来航
嘉永6年(1853)アメリカ海軍提督ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航すると、仁正寺藩では藩士の砲術訓練を強化、さらに火薬製造を開始するなど、攘夷に備えた動きを取りました。
領内の郷士からも大砲や陣鍋の献上があるなど、前回見たように高島秋帆の教えが浸透していましたので、領民を含む藩全体で国防意識が高まる状態にあったのでしょう。
藩名変更
その意気の表れか、文久2年(1862)4月28日には幕府の許可を得て藩名を「仁正寺」から「西大路」に変更したのは冒頭に見た通り。
西大路藩の西洋砲術に優れた点は幕府も認める所となって、文久3年(1863)8月18日の政変後には和泉国高石浜の海岸警固を命じられて、5年もの長きにわたって物頭役杉田佐太郎を総大将として237人を派兵しています。(『蒲生郡志』10)
さらに翌元治元年(1864)7月の禁門の変(蛤御門の変)では藩主長義みずから藩兵を率いて禁裏守護につくと、そのまま洛中警備を命じられました。
そして鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩の指揮の下、四塚関門の守備にあたっています。
この西大路(仁正寺)藩の働きに、慶応4年(1868)1月12日には明治天皇拝謁の栄に浴しました。(『蒲生郡志』10)
大阪行幸
こうして朝廷から厚い信頼を得た西大路(仁正寺)藩は、明治天皇の二条城行幸と大阪行幸に供奉し、大坂城内で名古屋藩や熊本藩、長州藩などの諸藩とともに銃隊と乗馬、大砲演習の天覧という栄誉に浴しました。(『明治天皇大阪行幸誌』)
また、東京奠都の際には京都の守衛に当たっています。(『蒲生郡志』10)
戊辰戦争
その一方で、戊辰戦争では美濃国の大垣藩と高須藩とともに東山道鎮撫使のもとで輜重の任を命じられて隊長田中善左衛門のもと藩士40名が出兵しました。
白河城攻防戦では、金穀兵糧方として大垣・川越・古河の三藩とともに参加しました。(『戊辰戦争』)
その後、因州(鳥取)、土州(高知)、薩州(鹿児島)、長州(山口)の各藩に従軍しました。
その活躍の一例を挙げると、明治元年(1868)8月23日の官軍会津城攻撃の時、滝坂口で会津軍の攻撃から戦闘が発生して、「土州藩附兵粮方 豊島作次郎」が討死、「長州藩附同(兵粮方)小者 常吉」が深手を負ったと同年10月22日に「市橋下総守公用人 大津忠右衛門」が届け出ています。(「同日(十月廿二日)西大路藩届書写」『太政官日誌 第百廿一 明治紀元戊辰冬十月』)
戊辰戦争終了時には、兵粮弾薬の輸送に従事したことに感謝して、総督府から酒肴料を下賜されています。(『蒲生郡志』10)
西大路(仁正寺)藩の明治維新
ここまで見てきたように、西大路(仁正寺)藩は終始藩論を尊皇に統一し、積極的に行動してきました。
その功績は、わずか1万7千石の小藩とも思えない卓越したものといってよいでしょう。
しかし、「士卒敵弾に死傷し其功績大に傳ふ可きものあり、然れども従軍将士の数少きにより藩士は同行の大藩に分属して活動したるを以て功績は大藩に奪はれて維新史上に其名を逸せらるゝは恨事」(『蒲生郡志』10)と危惧した通り、すっかり早忘れられてしまったのは残念でなりません。
論功行賞
明治2年6月2日、新政府は「奥羽征討行賞」として西大路藩主市橋長義に金賞典金5千両を下賜しました。(『平成新修 旧華族家系大成』)
そして長義はこれを「藩主の受賞は即ち藩士誠忠の賞なるを以て」田中隊長以下奥羽出陣士卒に分け与えたのです。
また、戦死した藩士豊島作次郎、郷夫重治郎と当次郎の三名を招魂社、現在の靖国神社に祀る手続きを行うとともにその費用を負担しています。(以上『蒲生郡志』10)
廃藩置県
明治2年(1869)6月に版籍奉還して長義は西大路藩知事に任じられると、従五位下主殿頭に叙されました。
そして、明治3年(1870)6月には藩から城内の開墾を願い出て聴可されていますので、このころ陣屋の整理にも着手したようです。
そして、市橋長義は明治維新と戊辰戦争での功績によって正五位に昇叙されてました。
さらに、明治4年(1871)7月14日に廃藩置県が断行された際には西大路藩が廃止されて西大路県が設置されると、そのまま市橋長義(長和)が県知事に任ぜられたのです。
しかしそのすぐ後には、府県制度改正によって同年11月22日に近江国南半に大津県に改編されると、西大路県もこれに併合されて解消、長義も東京への出府を命じられたのです。
「(長義東京移住の)報を得たる旧領民は市橋長政以来代々親子の如き情緒あるを以て各々惜別の情に堪へず、旧藩士はいはずもかな賤が伏屋の主に至るまで応分の金品を餞して之を贈れり」と記される有様でした。
そして、同年9月8日には「西大路の殿中に於て告別式を挙行」、領民に惜しまれつつ9月15日に出発し、翌明治5年3月23日に東京への移住を完了しています。(以上『蒲生郡志』4)
西大路(仁正寺)藩陣屋
廃藩に伴って藩士の多くが東京へ移住したため藩士屋敷は取り払われるとともに、陣屋表御殿は明治7年(1874)には西大路村朝陽小学校の開校にともなって、そのまま校舎に転用されました。
この旧陣屋表御殿は、その後大正時代に売却されて京都相国寺塔頭林光院の本堂となり現存しています。
現在、陣屋の遺構としては、現地に石垣や空堀の一部が残るほか、裏門が経王寺に、太鼓堂(勘定部屋)が民家に移築されています。(以上「廃城一覧」)
東京の長義
上京した長義は、かつての仁正寺(西大路)藩神田柳原の上屋敷を下賜されて居所としました。
その後、長義は西大路村の朝陽小学校に教育資金として百円を寄付するなど、故郷を愛し帰還を望んでいたといいます。(以上『蒲生郡志』4)
明治2年(1869)には華族に列せられるものの、健康がすぐれず病気がちとなり、望んでいた故郷への帰還を果たせないまま明治15年(1882)1月17日に死去しました。
これはのちに見るように、神田柳原の邸宅が火災に見舞われたすぐ後のことですので、財産の多くを失って気落ちしたことも長義の死に関係しているのかもしれません。
今回は明治維新における西大路(仁正寺)藩の栄光の時代を見てきました。
早くもその栄光に陰りが見え始めていましたが、大事件の発生によって市橋家は急速に没落していくことになります。
次回は市橋子爵家の没落にいたる道のりを見ていくことにしましょう。
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