前回は東宮侍従を務めつつも華族同方会を中心に活発な活動を続ける小笠原長育の姿をみてきました。
今回は、長育の活動の転換点となった貴族院設立の前後をみてみましょう。
貴族院設立
明治23年(1890)7月10日、華族会館で貴族院伯・子・男三爵議員の選挙が行われました。
この時の様子について、詳細に研究した佐々木克「初期議会の貴族院と華族」(『人文學報』67巻)からみてみましょう。
選挙は爵位ごとに互選する形式で、即日開票の結果、伯爵15名、男爵20名の当選者はすぐに判明しました。
いっぽうで、子爵は開票に手間取って徹夜となり、結果が判明したのが翌日の午前五時半となったのです。
子爵は選挙権を持つ者が297名、被選挙権を持つものが272名ですが、当日海外に出ているもの7名と、棄権したもの6名で、投票したものは284名でした。
投票は子爵議員の定員数である70名を連記する記名投票形式でしたので、単純計算で19,880人の被選挙人名を集計するという膨大な手間を要するものだったのです。
選挙の結果は、勘解由小路資生277票でトップ、立花種恭275票、鍋島直彬273票、大給恒271票と続いています。
相次ぐ辞退者
ところで、これだけ苦心惨憺した選挙でしたが、結果が判明したあとの14日以降、子爵当選者の辞退が相次ぎました。
これは、選挙の直前7月8日に宮内省から、議員と宮内省中の一部の職務とが両立しないことを理由に兼務を禁止する旨の通達が出されたことに起因しています。
この通達が拡大解釈されて、伯爵では宮中顧問だった東久世通禧と勝海舟、子爵でも宮内大臣土方久元、枢密院顧問官の榎本武揚や福岡孝弟など、辞退者が相次いだのです。
長育、貴族院議員を辞退
小笠原長育も上位で当選していましたが、東宮侍従の職務を続けるために、16日に辞退しています。
この事態の要因の一つが年俸の問題で、この時の議員歳費は年額800円のみと低かったことが挙げられるでしょう。
確かに、宮中顧問の年俸4,500円と比べるとその通りですが、東宮侍従は年俸240円ですから、長育の場合はこれに当てはまりません。
さらに、華族の貴族院あるいは議会への期待が高いものではなかったという点も考えられます。
この点では、議会はまさに始まるところで、実際にやってみないとわからない点も多かったのはいうまでもないでしょう。
長育の場合も、東宮侍従という直接未来の天皇に尽くす立場と比べて、議員は劣るものと考えたのかもしれません。
華族同方会の休止
そして国会が開設されると、貴族院に華族同方会から多くの議員が誕生しました。
貴族院は、皇族および公・侯爵は成人全員、伯・子・男爵はそれぞれで互選され、これに勅任議員を加えて貴族院が構成されました。
しかし、実際に議会がはじまると、同方会の活動は次第に低調となり、明治26年(1893)頃には活動休止に陥っています。
これは、国会が始まると、実際の政治会派におけるさまざまな活動が重要となって、華族の本分を研究する意欲や必要性が低下したからでしょう。(伊藤真希「華族が組織した成人学習の機会」・佐々木克「初期議会の貴族院と華族」)
こうして、活動の拠点としていた華族同方会がなくなったことで、長育は新たな活動を探すことになりますが、それはまた次回みることに。
長育の「出版事業」
華族のなかで貴族院での会派活動に没頭するものが多いのに反して、長育は「華族とは何か」という考察を深めていきます。
自身で考察するだけでなく、正しいと感じたものを紹介することも始めるようになりました。
おそらく、華族同方会法で日野資秀の「貴族概論」を紹介したことがきっかけとなったのでしょう。(「貴族概論」日野資秀/「貴族概論 附言」小笠原長育『華族同方会報告』)
欧米列強の貴族制度を詳細に分析した日野の論は反響も大きかったようで、これ以後、日野は請われて次々と論文を発表するようになっていきました。
曾我祐準『軍備要論』
このことをきっかけに、長育の個人名で、曾我祐準の講演をまとめた『軍備要論』などを発行しています。
この本の著者・曾我祐準は柳川藩出身の帝国軍人で、箱館戦争や西南戦争で活躍し、議会開設前後のこの時期は、軍備論争の中心人物でした。
東宮(のちの大正天皇)の御教育主任を務めていますので、長育とは旧知の間柄。
そして、『軍備要論』は、子爵曾我祐準が明治23年(1890)9月27日から10月18日までの三回にわたって、華族同方顔において行った演説を本にまとめたものです。
内容は、欧米各国に対して日本の兵数、軍事費ともに少なすぎるという事実がもとになっています。
そこで曾我は、「今日ノ日本ニ在リテ十五万乃至二十万ノ精強ナル陸軍ヲ以テ国防ノ基礎ヲ堅固ニシ傍ラ堅牢ナル若干ノ海軍ヲ備へ」と自説を展開しました。
これは現在、軽軍備論あるいは「経済軍備論」としてしられるもので、山縣有朋ら主流派が唱える対外遠征を見据えた拡張軍備論・「絶対的軍備論」と対立するものでした。
そしてこの本は軽軍備論の根拠を記したものとして、大きな反響をよんだのです。
ここまで、活動の転換点となった貴族院設立前後の長育をみてきました。
次回は、長育の思想をわかりやすく体験できる形にした「尚武須護陸」をみてみましょう。
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