前回まで繁栄をきわめた平泉寺の歴史をみてきました。
今回は、平泉寺を滅ぼした越前一向一揆のその後をみてみましょう。
朝倉氏滅亡
元亀元年(1566)浅井氏と連合して織田信長と姉川で戦うものの、大敗を喫します。
それでも、同盟関係にあった本願寺勢力や浅井氏と協力して再三信長と合戦に及ぶものの勝利を得ることはできません。
そして、天正元年(1573)8月に浅井長政を救援すべき出陣した近江で、信長軍の追撃を受けたことをきっかけに敗走しました。
ついに、義景は本拠の一乗谷を捨てて、一族で越前大野の朝倉景鏡を頼り越前大野へと落ち延びます。
そして、朝倉氏と長年関係が深かった平泉寺へ救援を求めましたが、すでに平泉寺は信長へと寝返っていたために応じることはなかったのです。(第7回「平泉寺炎上」参照)
ついに朝倉景鏡にまで裏切られて、8月20日に朝倉義景は自害し、ここに戦国大名朝倉家は滅亡しました。
越前一揆勃発
織田信長は朝倉義景を滅ぼすと、越前侵攻の案内役を務めた前波長俊(まえば ながとし)に越前を支配させます。
ところが、長俊が朝倉氏治世の越前で身分が高くなかったことに加えて、長俊が信長の権威を借りて高圧的な態度をとったことで、国侍たちの反発を招いてしまいました。
この機をとらえて、富田長繁(とみた ながしげ)が国中の一揆とともに蜂起すると、長俊は天正2年(1574)正月に一乗谷で殺されてしまったのです。
本願寺の介入
こうして長繁が越前の支配を継承したかにみえましたが、一揆勢の中心であった門徒衆は、加賀より本願寺金沢坊の坊官七里頼周(しちり よりちか)を招いて長繁の支配から離脱します。
加賀は長享2年(1488)の加賀一向一揆で守護の富樫氏を滅ぼして以降、「百姓の持ちたる国」として一向宗の一大拠点となっていました。
そこで、越前の門徒衆は、加賀へ助力を頼んだのです。
越前一向一揆
そして、越前各郡より13万8,000人の国中の一揆が蜂起して長繁と合戦におよんだすえに、2月18日に富田長繁は敗死してしまいます。
さらにその後、平泉寺や大谷寺など本願寺派ではない寺社を攻撃するようになって、鑓(やり)講・十七講という本願寺門徒の武装組織や村の一揆勢の活躍がめだつようになりました。
前回みた袋田門徒の一揆が村岡山に立てこもったのも、この流れを受けたものだったのです。
こうしてついに、加賀に続いて越前も「百姓の持ちたる国」となったのでした。
一揆の内部崩壊
本願寺は一揆蜂起の直後には、石山本願寺の坊官下間頼照(しもつま よりあき)を派遣します。
ここには、本覚寺・専修寺などの大坊主や杉浦玄任、下間和泉、若林長門、七里らを用いて一揆を自分たちが統制し、戦国大名のような支配体制を築こうとしたのです。
そこには、反信長闘争の拠点にする狙いがあったのはいうまでもありません。
このため、地元越前の要望を無視して戦争のために重い税を課すなどの施策を行いますが、これが鑓講や村の一揆との対立を招くことになります。
一揆勢は、信長と本願寺の合戦に味方するために命をかけたのではありませんから、反発するのは当然でしょう。
こうした中、一揆勢の首領が本願寺坊官たちの排除を企てると、逆に彼らを次々と謀殺する暴挙に出ました。
これに反発した村の一揆が下間頼照を討つべく蜂起するという事態にまで発展して、越前一揆は内部より崩壊状態になってしまったのです。
今回、信長勢を越前から追い出した一向一揆の様子をみてきました。
そこで次回は、はやくも内部崩壊をおこす一向一揆勢に、信長は容赦のない反撃と柴田勝家の越前支配をみてみましょう。
《今回の記事は、『福井県史』『福井県史蹟勝地調査報告 第二冊』『角川日本地名大辞典』『福井県の歴史』をもとに執筆しています。》
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