前回は五島の歴史を駆け足でみてきました。
そこで今回からはあらためてもっとくわしく五島の歴史をみていくことにしましょう。
西の果て・五島
かつて、日本の西の端は五島列島とされていました。
「四方之堺東方陸奥西方遠値嘉南方土佐北方佐渡」(『延喜式』巻十六陰陽寮)
平安時代前期には、この文中にあるように日本の範囲をしめすとき、西の端となるのが「遠値嘉」で、これこそが五島を指しているのです。
藤原広嗣と値嘉嶋
聖武天皇の治世だった天平12年(740)、太宰府の次官だった藤原広嗣が突如反乱を起こすものの敗れて、「値嘉嶋」から船で新羅への逃亡を図りました。
しかし、おり悪く逆風で「等保値嘉嶋」に漂着し、捕らえられています。(『続日本紀』)
ここでいう「値嘉島」とは、五島を指すものですので、すでに値嘉嶋が朝鮮半島や中国と海上交通で結ばれていた証拠とみてよいでしょう。
遣唐使と値嘉嶋
また、五島に関係する文献で最も古いものの一つ『肥前国風土記』の値嘉郷の条には、「遣唐之使」が相子(浦)(現在の青方)、川原浦を出発し、「美弥良久之琦」(現在の三井楽)を通って唐へ向かうことが記されています。
遣唐使船は博多から平戸を経て値嘉嶋、つまり現在の五島から東シナ海を横断する航路をとったのですが、航海技術が低かったために、漂流したり、さらには沈没する船まである危険なものだったのです。(『日本地名大辞典』)
また、『続日本紀』宝亀7年(776)8月条には佐伯今毛人ら遣唐使が合蝅田浦(あいこだのうら)で風待ちをしていますが、この場所が現在の中通島の相河(あいこ)と推定されています。
空海と最澄が同乗していた第十六次遣唐使は翌宝亀8年(777)に五島から出発していますので、地元では、最澄や空海も相河に上陸したと伝えられるとともに、多くの事績を残しているのです。(『島嶼大事典』『海の国の記憶』)
「値嘉島」
『日本三代実録』によると、太宰権帥在原行平の上申により、貞観18年(876)3月9日に五島列島に上近・下近の二郡を建てて肥前国から独立させて「島」としたことが記されています。
「島」は離島などに置かれた行政組織ですが、「島」といえば対馬や壱岐、隠岐を思い起こす方も多いのではないでしょうか。
申請の理由として、値嘉島が僻地で不便であることと、新羅や唐から来島するものが多く、薬草などの資源を収奪する事件が起こっていることから、防御上の必要性をあげています。
このこともまた、五島列島の海上交通における重要性を示してくれるのですが、この措置はうまくいかなかったようで、ほどなく廃止されています。
今回は、海上交通を中心に遣唐使の時代の五島をみてきました。
次回は、遣唐使廃止前後の海上交通について、円仁と円珍の旅から見てみることにしましょう。
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