野依秀市の謎【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編 51】

前々回、大規模再開発で麻布我善坊町が丸ごと工事中となって、五島子爵家麻布邸が見えず困りはててしまった私は、休憩を兼ねて前回に五島子爵家麻布邸についてみてみました。

そして、現場のガードマンさんたちからヒントを得て、五島子爵家と野依秀市との関係に気づいたのです。

そこで今回は、野依秀市という人物をみてみましょう。

野依秀市とは

前回みたように、野依秀市は、大分県から上京した明治36年(1903)に、五島子爵家の東京屋敷で門番をしていました。

ここから野依のジャーナリストとして波乱にとんだ人生がスタートするわけですが、そもそも野依秀市とはどんな人なのでしょうか。

まずは野依という人物について、「野依秀市の混沌」および『日本人名大事典』『昭和人物事典』『天下無敵のメディア人間』から年譜をたどってみてみましょう。

野依秀一(『有田音松と野依秀一 狂か?義か?』放天散士(事業之日本社、大正14年)国立国会図書館デジタルコレクション)
【若いころの野依秀一『有田音松と野依秀一 狂か?義か?』放天散士(事業之日本社、大正14年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

野依秀市年譜

明治18年(1885)7月19日大分県下毛郡中津町(現在の大分県中津市)生まれ。

別名は不屈生、一寸法師、四尺八寸生、芝野仙人。

呉服店主を営む野依幸藏の二男として生まれる。

明治36年(1903)三度目の出奔で上京、五島子爵家東京屋敷(麻布邸)で門番をしつつ慶應義塾の商業夜学校に学ぶ。

在学中の明治38年(1905)、同校で知り合った石山賢吉(のちダイヤモンド社を創立)らと三田商業研究所を設立して、雑誌『三田商業界』(のち『実業之世界』と改題)を創刊。

出版・ジャーナリズムの世界に足を踏み入れ、広告獲得に才能を発揮して頭角を現した。

明治39年(1906)には石山と対立して同誌を離れ日本新聞社の広告主任に転じたが、明治40年(1907)に退社して「大日本実業評論」を創刊。

まもなく同誌を隆文館の『活動之日本』と合併させて同社に移り、明治41年(1908)同誌を『実業倶楽部』に改題。

同年三田商業研究所に復帰して社長に就任、『三田商業界』を『実業之世界』に改題した。

同誌のほかに、『女の世界』『世の中』『探偵雑誌』『野依雑誌』などの雑誌を創刊。

また三宅雪嶺、渋沢栄一らの庇護をうけた。

野依秀一・渋沢栄一(左)・三宅雪嶺(右)(『実業之世界創刊二十周年記念大後援録』実業之日本社編輯曲 編(実業之日本社、1927)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【野依秀一・渋沢栄一(左)・三宅雪嶺(右)『実業之世界創刊二十周年記念大後援録』実業之日本社編輯曲 編(実業之日本社、1927)国立国会図書館デジタルコレクション 】

この間、東京電燈の三割料金値下げ問題にからむ恐喝罪などでたびたび入獄。

またこのころには、大正元年(1912)には新渡戸稲造を糾弾、大正3年(1914)には悪徳保険会社を糾弾するいっぽうで、堺利彦、荒畑寒村、大杉栄らと親交を結ぶ。

獄中で浄土真宗に帰依したことから『真宗の世界』『ルンビニ』『仏教思想』といった仏教雑誌を発行。

のちに、日本真宗宣伝協会長、世界仏教協会長をつとめている。

原内閣擁護論を展開して政党政治と普通選挙の実現を目指す。

大正13年(1924)には清浦奎吾内閣の成立に反対し、打倒運動を展開し、第二次護憲運動を助ける。

大正14年(1925)「売薬王」有田音松と「有田ドラッグ」を糾弾。

有田音松(『有田音松と野依秀一 狂か?義か?』放天散士(事業之日本社、大正14年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【有田音松(『有田音松と野依秀一 狂か?義か?』放天散士(事業之日本社、大正14年)国立国会図書館デジタルコレクション ) 詐欺まがいの薬販売チェーン店商法で一時代を築くも、野依の猛攻に敗れる。】

同年、欧米視察、その途上で片山潜に再会。

昭和3年(1928)朝日新聞社批判キャンペーン展開。

昭和4年(1929)野依秀一を「秀市」に改名。

昭和6年(1931)講談社と野間清治批判キャンペーン展開。

昭和7年(1932)には日刊紙「帝都日日新聞」を創刊、社長兼主筆となった。

先の東京電燈値下げをはじめ、番町会攻撃などで論陣をはり、注目されると同時に恐喝罪に問われるなど、雑誌会の名物男であった。

社会悪とみなした相手に対して言論攻撃を加える「敵本意主義の喧嘩ジャーナリズム」を特徴とし、大正・昭和期のジャーナリズムにおいて独自の地位を築いた。

太平洋戦争下の昭和19年(1944)には東条英機内閣を攻撃し、45回の発売禁止処分をうけたのち「帝都日日新聞」は廃刊に追い込まれた。

東条英機(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)の画像。
【東条英機(「近代日本人の肖像」国立国会図書館) 野依秀市がケンカを売った時の権力者。】

また、このころアメリカ本土渡洋爆撃敢行などを提唱したため、戦後公職追放された。

解除後は昭和30年(1955)に衆議院議員(日本民主党)となり、保守合同に活躍。

いっぽう、国会には大正13年(1924)衆議院選挙に立候補して以来、政界にも進出を図っている。

昭和7年(1932)大分1区から衆議院議員に初当選、昭和30年(1955)の通算2期、衆議院議員を務めた。

野依秀一(『実業之世界創刊二十周年記念大後援録』実業之日本社編輯曲 編(実業之日本社、1927)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【野依秀一『実業之世界創刊二十周年記念大後援録』実業之日本社編輯曲 編(実業之日本社、1927)国立国会図書館デジタルコレクション 】

昭和33年(1958)には「帝都日日新聞」を復刊、深沢七郎の『風流夢譚』をめぐり、中央公論社を激しく攻撃。

また、紀元節復活法制化運動の先頭に立ったことでも知られる。

昭和43年(1968)3月31日、東京女子医科大学病院にて死去。

謎だらけの野依秀市

野依秀市の経歴をみても、激しいのは間違いないにしても、まるで行動にまとまりがありません。

そのせいか、様々な局面で重要な役割も果たしているのですが、正史ではほとんど忘れ去られた存在となっているのです。

しかし、野依の200冊を超えるといわれる著作のうち、数冊を読んだ印象は、まったく論旨は一貫しないものの、力強い文章が印象に残りました。

ゴーストライターをカミングアウト

それもそのはずで、野依は多数のゴーストライターを抱えていたうえに、自らそれを公言してはばからないという、「ジャーナリスト」の範疇からは考えられない人物だったのです。

しかも、そのゴーストライターが、堺利彦(枯川)、白柳秀湖をはじめ、荒畑寒村、山川均などのそうそうたる顔ぶれだったといいます。(「野依秀市の混沌」)

荒畑寒村(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)の画像。
【荒畑寒村(「近代日本人の肖像」国立国会図書館) 日本共産党と日本社会党の設立に参加した孤高の社会運動家。】

佐藤卓己が「メディア人間」と呼ぶように、もはや一個のジャーナリストというよりブルームバーグのような「メディア=広告媒体」と考えた方がわかりやすいかもしれません。(『天下無敵のメディア人間』)

では、野依とはどんな人だったのでしょうか。 

草野心平のみた野依秀市

ここで、野依の下で働いた経験を持つ草野心平『わが青春の記』からみてみましょう。

「野依社長は熊ン蜂のようにとび回っていた。カンシャク持ちですぐ怒る。勤勉家だが、それは努力からきているのではなく、動かないではいられない本能がそうさせる。狂信的であばれん坊で、いわば火だるまみたいな人物だった。その火だるまの中には一種独自なユーモアがあった。」(『わが青春の記』)

草野心平(毎日新聞社「毎日グラフ(1955年6月1日号)」、Wikipediaより20210907ダウンロード)の画像。
【草野心平(毎日新聞社「毎日グラフ(1955年6月1日号)」、Wikipediaより) 「蛙の詩人」と呼ばれ、生命力参加とアナーキズム的詩風で知られています。多くの更新を育てて、戦中戦後の詩壇を支え続けたことでも知られています。】

怪人の出発点

さて、この怪人物・野依秀市の出発点となったのが、前にもみたとおり五島子爵家でした。

そのころについて、「野依秀市の混沌」に載せられた野依の回顧をみてみましょう。

「(明治36年(1903)に大分県から)上京した野依は磯村豊太郎を訪ね、その世話で五島子爵家の書生となり、後に堀田子爵家に移り、さらに江副廉蔵(外国煙草ピンヘッド日本総代理店主)の書生となった。

 五島子爵邸では風呂焚きもする。庭の掃除もする。

左官が来て仕事をしておれば、その手伝いもする。実によく働いたものだ。

(中略)とにかくよく働くので重宝がられた。

それから堀田正養の方に勤めてからも、風呂焚きもすれば、坊ちゃんの守もする。

犬が三匹おったが、その犬の足を毎日洗ってやった。

五島におる時から慶応義塾の商業夜学校に通っておった。

当時の野依の目標は磯村豊太郎さんのように三井物産に入って、営業部長から更に重役になろうというのが理想だった。

手の甲に「三井物産理事」という文字を書いておいて、洗って消えると翌日また書くという風にしておった。」(『福沢先生と私』)

五島子爵家も堀田子爵家も呼び捨て、五島家に至っては当主の名前すら憶えていない様子。

書生として東京に居場所を提供してくれた感謝など、みじんも感じてない様子ですね。

堀田正養子爵(『逓信省五十年略史』逓信省 編集・発行、1936、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【堀田正養子爵(『逓信省五十年略史』逓信省 編集・発行、1936、国立国会図書館デジタルコレクション) 】

五島家と野依秀市

その後、野依は大正14年(1924)年初に「日本改革私案三十二箇条」を発表していますが、その第一が「華族身分の抜本的改革」でした。(『天下無敵のメディア人間』)

そして同年1月7日の枢密院議長清浦奎吾の組閣、いわゆる「貴族院内閣」の成立をきっかけに、議会政治の蹂躙を阻止すべく、護憲三派を中心とする第二次護憲運動が燃え上がるのですが、このとき野依は私財を投じて清浦内閣を批判する意見広告を新聞に掲載したのです。

その中で、「無能華族」「少数特権の不逞貴族」「社会の寄生虫たる貴族」と華族を徹底的に罵倒しています。

ひょっとするとこのとき、長々と東京帝大に通いつつ妻子に恵まれたうえ、ドイツ留学まで果たした五島盛光の姿が野依の頭をよぎっていたのかもしれません。

野依秀市(『衆議院要覧 昭和7年5月乙』衆議院事務局 編集・発行、1912、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【野依秀市『衆議院要覧 昭和7年5月乙』衆議院事務局 編集・発行、1912、国立国会図書館デジタルコレクション 】

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など

「東都麻布之絵図」戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永4年)

「明治東京全図」市原正秀原著・朝倉寛校訂(東京書肆、明治9年)

『華族名鑑 明治23年版』彦根正三(博行書院、1892)

『読売新聞』明治43年(1910)12月9日付朝刊「旧藩と新人物」153信越付佐渡59

『人事興信録初版』(人事興信所、1911)明治36年4月刊)

『人事興信録 3版(明治44年4月刊)く之部−す之部』(人事興信所、1911明治44年)

『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市区調査会、1912

『東京市及接続郡部地籍地図』東京市区調査会、1912

『人事興信録 4版』人事興信所編(人事興信所、1915)

『華族名簿大正5年3月31日調』華族会館、1916

『麻布区史』東京市麻布区 編集・発行、1941

「野依秀市の混沌」梅原正紀/「七色の人生・散りゆく虚人」鶴見俊輔『ドキュメント日本人9 虚人列伝』谷川健一・鶴見俊輔・村上一郎 編(學藝書林、1969)

『東京の坂道 -生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1971)

「五島藩」森山恒雄『新編 物語藩史』第十一巻、児玉幸多・北島正元監修(新人物往来社、1975)

『東京文学地名辞典』槌田満文 編(東京堂出版、1978)

『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)

『日本人名大事典 現代』下中邦彦 編(平凡社、1979)

「五島藩」森山恒雄『三百藩家臣人名事典』第七巻、家臣人名事典編纂委員会編(新人物往来社、1989)

『江戸幕藩大名家事典』中巻、小川恭一編(原書房、1992)

『平成新修 旧華族家系大成』上巻、霞会館華族家系大成編纂委員会編(吉川弘文館、平成8年)

『草野心平 わが青春の記』草野心平(日本図書センター、2004)〔『わが青春の記』草野心平(オリオン社、1965)の改題〕

『天下無敵のメディア人間 ―喧嘩ジャーナリスト・野依秀市』佐藤卓己(新潮社、2012)

『昭和人物事典 戦前期』日外アソシエーツ 編集・発行、2017

港区設置の案内板

参考文献:

『港区史』東京都港区役所 編集・発行、1960

『新修 港区史』東京都港区役所 編集・発行、1979

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