前回みたように、最大の懸案だった藩財政改革にようやく光が差し始めて、林毛川の藩政改革は成功するかに見えました。
さらに毛川は藩政改革を強力に推し進めていきます。
今回は長山講武台建設から藩政改革の結末をみてみましょう。
長山講武台の設立
幕末、外国船の出現が相次いだことから、軍備の充実も重要な課題になっていました。
そこで毛川は、嘉永元年にから800mほど離れたところにある藩の御鉄砲場城だった長山を崩して武術稽古場をつくることにします。
領民から強制的に人夫を供出させたうえ、近接する天領や他藩の農民にまで協力を要請したのです。
こうして人足をかき集めた工事が4年にわたって続けられ、嘉永5年(1852)にようやく講武台は完成しました。
さらに、百姓・町民から民兵を取立てたり、町方御目見以上のもの全員に砲術稽古を命じるなどした結果、藩内では武術が盛んとなったのです。
藩主長守の直書
安政2年(1855)12月22日、諸士以上に惣登城の触が出され、そこで藩主長守の直書が読み上げられます。
そこには、10月に起こった安政江戸地震で江戸上屋敷が倒壊し、復興の見込みが立たないことを訴えたものでした。
また、借米したいが異国船警備もあって、今後出費が予想されるので、今回は控えるとともに、万一の場合に備えて覚悟しておくように、という内容でした。
藩主の愁訴
じつは同じ日、町方・村方の庄屋たちも藩会所に呼ばれて、藩主からの直書が申し渡されていました。
内容は藩士向けと同じもののあとに、思慮があれば献金するように、暗に強制するものだったのです。
実はこの庄屋向けの直書、内容は藩士向けに似ていても、その書き出しが全く違っていました。
「我等幼年より役人共不心得の者有り度々用金申付、其上不相応の学校ヲ相立、長山を切開き、是等の儀は其方共のあぶらを絞り莫大の物入、且賦役人足等を夥数相掛り、終ニ難渋致させ候」
ここまで藩主が領民に対して低姿勢で、これまでの「悪政」を詫びるなどということがあったでしょうか。
これは、林毛川が行った藩校・成器堂の建設や長山講武台の築造について、「あぶらを絞」ったと認め、全否定しているのです。
愁訴の背景
じつはこれ、安政江戸地震によって藩の江戸上屋敷が大破しましたので、「自主的に」藩邸復興費用を庄屋たちに出してもらおうと目論んだものでした。
ですので、江戸にいる藩主の老母が寒空に身をさらしている悲劇を言わんがための前置きだったのです。
さらに「其方共難渋の上、又難渋致させ候」という状況なので、「民の父母たる道」にも藩主長守が背くことになるが、これも仕方がないことだ、と続くのです。
これは、藩主が領民の同情心を駆り立てて藩邸再建費用を拠出しようと愁訴しているにほかなりません。
しかし、悪政は藩主が幼いことをよいことに、役人どもが不心得でおこなったものであると、ちゃっかり自分の責任は回避していることも見逃せませんね。
今回みたように、ようやく成功が見え始めた矢先だったのにもかかわらず、藩主長守は林毛川の藩政改革を頓挫させました。
その理由を、長守は江戸藩邸再建資金を用立てるためとしていますが、どうやらそれだけではないようです。
そこで次回は、毛川の藩政改革が失敗した理由を探ってみましょう。
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