長嶋茂雄と柳北小学校(台東区立柳北小学校その1)

東京五輪の開会式で、聖火ランナーをつとめた長嶋茂雄の姿に胸がつまる思いをした方も多かったのではないでしょうか。

かつて長嶋茂雄のプレーに心躍らせた子供たちは少なくありませんが、「私たちの学校と長嶋選手は特別な関係がある」女生徒がこう胸を張っていう小学校があったのをご存じでしょうか?

その小学校とは「台東区立柳北小学校」、東京の下町まっただ中にある活気あふれる小学校でした。

そして、彼女が「特別な関係」と胸を張るのには理由があったのです。

『週刊少年サンデー』創刊号表紙、(Wikipediaより20210804ダウンロード)の画像。
【『週刊少年サンデー』創刊号表紙の長嶋茂雄、Wikipediaより】

長嶋茂雄来校

「昭和40年(1965)3月 第一回卒業生送別スポーツ大会として野球大会を開催、決勝に巨人軍長嶋茂雄選手来校、トロフィーを寄贈するとともに、試合後に講堂で参加児童との交歓会を開く。」(『柳北百年』)

長嶋茂雄は、昭和33年(1968)に巨人軍に入団してからは、昭和34~36年(1959~61)三年連続首位打者獲得など、毎年のようにタイトルを獲得する活躍を続けていました。

来校した昭和40年はタイトル獲得こそならなかったものの、チームは川上哲治監督のもとで日本一に輝いて、この年から伝説のV9が始まっています。

まさに王貞治との「ON」コンビの人気はうなぎのぼりでしたから、子供たちのはしゃぎようも相当なものだったことでしょう。

『柳北百年』には長嶋選手と話した女生徒が、てっきり握手をしたものと思い込んだ男子生徒たちから握手をせがまれて困ったエピソードが載せられています。

長嶋再来校

さらになんと、「昭和41年(1966)3月、卒業生送別スポーツ大会に巨人軍長嶋茂雄選手、ふたたび来校。」(『柳北百年』)

この年の長嶋選手は、5度目の首位打者と三度目となるセリーグMVPを獲得する大活躍でした。

今でも柳北小OBたちにお話をうかがうと、この感動の体験は、当時の在校生ならずとも、柳北卒業生の心の中に大切にしまわれています。

しかし、どうしてスーパースターの長嶋茂雄が多忙にもかかわらず柳北小学校を二度までも訪れたのでしょうか?

じつはその前に、ある出来事があったのです。

巨人軍のスター軍団来校

長嶋来校の8年前にあたる昭和32年(1957)のシーズン終了後、巨人軍水原茂監督、藤田元司投手、広岡達朗内野手、岩本尭外野手が来校して校庭で野球教室開催しました。(『柳北百年』)

なにげなく書かれていますが、じつはこれ、とてもすごいことなのです。

のちに広岡がインタビューで語っていますが、「僕らの時代には、先輩たちから『プロ野球へは行くな』と言われていた」と語るようにこのころは都市対抗野球や東京六大学といったアマチュア野球の全盛期で、人気もこちらの方がありました。」(『ジャイアンツ80年史 PART4』)

まだまだ豪放磊落な男たちが集う職業野球の気風が色濃く残っていた巨人軍が、東京六大学のスター選手を獲得することで注目を集めようとしていた時期だったのです。

参加した藤田元司は慶応のエースでしたし、広岡と岩本も早稲田のスター、翌年にはあの長嶋茂雄が入団するといった状況でした。

ですから、この巨人軍の名監督とスター選手たちの柳北小学校訪問は、プロ野球人気を高めるためのイベント、いまでいうファンサービスのさきがけだったとみてよいでしょう。

「川上哲治とマウンドで話す水原茂監督」(『野球界』1956年8月号(博友社、1956)、Wikipediaより20210804ダウンロード)の画像。
【川上哲治とマウンドで話す水原茂監督『野球界』1956年8月号(博友社、1956)、Wikipediaより】

水原猛監督

水原監督は、昭和25年(1950)に監督に就任して、昭和26~28年(1951~53)までリーグ三連覇と日本一に輝き、巨人軍の「第二期黄金時代」を築き上げた名監督です。

与那嶺要、千葉茂、川上哲治に、エースの別所毅彦というスター選手がずらりと並んだこの第2黄金時代をご存じの方も多いのではないでしょうか。

水原監督たちが柳北小を訪れた昭和32年といえば、前年に続いて水原の宿敵で巨人軍前監督の三原修監督が率いる西鉄野武士軍団と日本シリーズで激突、ところが巨人軍は1勝もあげることなく1分4敗で完敗してしまいました。

巨人軍は日本球界の盟主を自任していましたから、この事態に野球教室のあとの懇談会で、水原監督に巨人軍の再建を問う厳しい質問が浴びせられたというのもうなずけます。(『柳北百年』)

来校した巨人軍の選手たち

ここでちょっと、来校した選手たちについても見てみましょう。

藤田元司は、この年に巨人軍に入団、新人王を獲得しています。

広岡達朗は、昭和29年(1954)入団、正遊撃手となり新人王の活躍をしてこの年は故障で2か月間離脱したものの、自己最多の18本のホームランを放つ活躍を見せました。

岩本尭は、昭和28年(1953)入団、外野とサードを守れる俊足巧打のマルチプレイヤーとして活躍していましたが、この年は頭部にデッドボールを受けて不振でした。

こうしてみると、柳北小学校にやってきた三選手はいずれも巨人軍の主力選手ですから、スターといってよいでしょう。

しかし、懇談会ではこの年に入団が決まった長嶋茂雄について質問が集中したことも(『柳北百年』)、おそらく選手たちの心に深く刻まれたに違いありません。

そこで、この時のことをちょっと残念な気持ちを込めて長嶋に伝えたのが、のちに長嶋来校につながったのではないか、と想像しています。

『週刊ベースボール』1958年4月16日号表紙(Wikipediaより20210804ダウンロード)の画像。
【『週刊ベースボール』1958年4月16日号表紙、左が長嶋茂雄、右が広岡達朗(Wikipediaより)】

柳北エラーズ誕生

こうして長嶋茂雄の来校で高まった野球熱は、昭和40年(1965)10月の柳北エラーズ結成へとつながっていきました。

その後、台東区立柳北小学校は、残念ながら平成13年(2001)に新校・台東育英小学校に統合、廃校となっています。

しかし、柳北小学校が廃校になっても、エラーズは存続して現在に至るまで受け継がれてきました。

長嶋茂雄がともした野球の灯が、いまも地域の人々によって大切に守られているのです。

それでは次回からは、柳北小学校がどのような学校だったのかをみていくことにしましょう。

(今回の記事で文献をあげていない部分については、『日本プロ野球偉人伝 1956~58編』、『日本プロ野球偉人伝 1959~64編』、『ジャイアンツ80年史 PART3』、『ジャイアンツ80年史 PART4』に依拠して記しています。)

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