謎の半生 長谷川時雨(はせがわ しぐれ)④

前回は長谷川時雨という作家の人生をざっと見てきました。

あまりに唐突で振れ幅が大きく、私は戸惑いを感じずにはおれません。

長谷川時雨イラストの画像

そこで、今回は視点を変えて、改めて長谷川時雨の人物像を見ていきたいと思います。

文学史的に長谷川時雨の功績として挙げられるのは、歌舞伎作家としての業績と、『女人芸術』での才能発掘の二つに異論はないところ。

確かに史上初の女性歌舞伎作家というだけでもすごいのに、演劇雑誌「シバヰ」や「舞踊研究会」によって歌舞伎の発展に貢献している業績は見逃せません。

もう一方の『女人芸術』で育った円地文子、林芙美子といった女流作家たちは、戦後文学に大きく寄与しているのは間違いのない事実。

しかし、「輝ク」での帝国陸海軍への協力が戦争協力とみなされて、長谷川時雨という作家の評価を難しくしているように感じます。

一時期は『青鞜』メンバーとの交流の中で、女性の地位向上や自由主義的価値観に近づいていただけに、よけいに難解に思いませんか?

しかし、私が第一に思うのは『旧聞日本橋』にみえる、明るく楽観的でいて、それでも本質をえぐり出すような眼差しです。

これって実は、江戸っ子そのものなのではないか?そう私には見えてきます。

「今様七小町 雨乞」(歌川国芳 1851、大英博物館)の画像
【「今様七小町 雨乞」歌川国芳 1851、大英博物館】

ここで江戸っ子とは何か、ざっとおさらいしてみましょう。

江戸っ子とは、古くは日本橋・神田あたりで生まれ育った者で、江戸に生まれ育ったことを誇りとする者のことです。

江戸っ子の特質は、「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し」、つまり鯉のぼりが中を風だけが通るように何もなくさっぱりした性格で、「江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ」というように、お金や名誉には淡白で頓着しないという独特の価値観に根差して生きています。

「いき」と「はり」(弱いものを助けて強きをくじく)に生きることを最上とする美意識を持つ反面、短気で軽薄な傾向があるのはみなさまご存じのとおり。

この結果、金離れがよくて正義感にあふれる江戸っ子独自の行動様式が生まれました。

「夏祭意気地ノ江戸ッ子」(歌川豊国(太田屋多吉、安政5年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「夏祭意気地ノ江戸ッ子」歌川豊国(太田屋多吉、安政5年)国立国会図書館デジタルコレクション】

江戸っ子という言葉は明和年間に出現、川柳をはじめ、洒落本、黄表紙などの小説や、歌舞伎のセリフなどで続々と江戸っ子が登場し、浸透していきました。

江戸っ子意識の根幹には田沼時代に江戸文化が上方文化を凌駕し、江戸固有の町民文化が見事に花開いたこと、そしてその文化を開花させた中心的担い手は、まさに自分たちであるという自負心があるといわれています。

こうしてみてくると、長谷川時雨という人の根幹は、まさにこの江戸っ子なのだと考えられるのではないでしょうか。

というのも まず、歌舞伎作家として成功を収めてもそれに執着しませんでした、見事なくらいさっぱりしたものです。

「大谷鬼次の奴江戸兵衛」(東洲斎写楽1794 大英博物館)の画像。
【「大谷鬼次の奴江戸兵衛」東洲斎写楽1794 大英博物館】

さらには弱いもの、困っている人を助ける「はり」の意識が強く表れたのが、『女人芸術』では作品発表機会が少なかった女流作家たちを活動の場を作り出すことで救ったこと。

そして、「輝ク部隊」では戦争で出征後に残された家族や家族と離れてさみしい思いをしている出征兵を助けるという行動に見ることができると思います。

あるいは、才能があるのに世に出ない人を助けるという意味で、三上於菟吉への献身的愛情も説明できるかもしれません。

『長谷川時雨全集』にも、時雨が姉御肌で面倒見の良い人物だったことが記されているではありませんか!

ここに時雨が末期まで書きたがっていたという樋口一葉に通じるものを感じるのは私だけでしょうか。

ここまで「江戸っ子」長谷川時雨についてみてきました。

次回では、私が思うところの長谷川時雨について記してみたいと思います。

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