【ひな祭りの話】:①ひな祭りとは? / ②ひな祭り源流、上巳の節供とは? / ③もう一つのひな祭りの源流、ひひな遊びとは? / ④ひな祭りの誕生 / ⑤現代のひな祭り / ⑥雛流しと流しびな / ⑦雛市と江戸のひな人形とは?
では最後に、今も「人形町」の地名に残る、江戸の雛市の賑わいについてご紹介します。
ひな人形が、実は江戸の町で大きな変化を遂げたのはこれまでに見てきた通りです。
ここでは、その変化をおさらいしてみましょう。
古代からの伝統を受けて京の貴族階級で誕生した「ひな祭り」が、江戸中期からは江戸の町をはじめ広く一般家庭で盛んに行われるようになりました。
そんな中で、ひな人形自体にも大きな変化が起こります。
人形は紙人形からより豪勢なものへと変わり、飾る人形の種類もふえていき、それにともなって幾段もの雛壇をこしらえるようになります。
そこにさらに三人官女・随身・衛士、ついには江戸で五人囃子の人形が作り始められ、雪洞・金屏風・桜・橘や、調度や駕籠・牛車まで作られて七段飾りが誕生し、今日のひな祭の飾りとなりました。
ひな人形は最初京製が主でしたが、明和年間には、江戸製の古今雛が出現します。
江戸製の古今雛のもつ優雅で写実的な作風が江戸っ子たちに親しまれ、明治以後現在もこの古今雛系の形が踏襲されています。
一方で、ひな人形が豪華になり人形の種類が増えて付属品が充実してくると、これを商う雛市・雛売などの商売も起こります。
京・大坂・江戸に雛仲間(雛人形問屋同業組合)組織ができ、江戸市内にも3月3日の節供の前に、雛や調度などを売る「雛市」が立つようになります。
古くは『江戸砂子』(貞享年間(1687〜87)刊行)によれば、2月27日より3月2日まで江戸中橋・尾張一丁目・拾間棚(十軒店)・糀(麹)町四丁目・人形町に雛市が立つとあります。
このうち、江戸の雛市を代表したのが十軒店でした。あまりの混雑に、仮設店舗も三列もが許可されるまでになり、寛政(1789〜96)頃の川柳には「十軒が十軒ながら公家の宿」(公家とは内裏とひなを、宿とは店を指します)と詠まれるまででした。
斎藤月岑『江戸名所図会』(天保5年(1834))にも日本橋近くの本町と石町の間の大通りを十軒店といい、ここに雛市が開かれ大いに賑わったとあります。
また同時に、尾張町・浅草茅町・池の端仲町・雛町・麹町・駒込などにも雛市があったと記しています。
さらに、『守貞漫稿』(喜多川守貞1837~53)には「江戸十軒店の秋月・玉山等を雛の名工とす」とひな人形作りの名人が現れたことが書かれています。
江戸後期以降(享保年間(1716~36)以降とする説もあります)にはひな人形の需要がさらに増えて、2月25日からの開催と時期が長くなるとともに、浅草茅町・池端仲町・牛込神楽坂上・芝神明前とひな市が立つ場所がふえたことが知られています。
このうち浅草茅町の雛市は比較的新しい市でしたが、江戸を代表する人形店の吉徳大光(1711年創業)や久月(1835年創業)という老舗が近いこともあり、大いに栄えました。
市が立つ場所では、繁忙期にはその町内の他業の店も臨時にひな人形を売るという場合もあり、仮設店舗店も許可されて町全体がひな店にあふれて大変な賑わいを見せました。
明治30年代から、東京では三井(三越)・白木屋(東急)など大呉服店でも雛が売られるようになり、のちに各地の呉服店や百貨店でも同様に販売するようになります。
このことで、江戸の各地で開催された雛市は急速に廃れることになります。
雛市はなくなりましたが、老舗の人形店のあった浅草茅町周辺では人形店が集まることとなり、人形の街・浅草橋が誕生します。
現在でも浅草橋・柳橋の江戸通り沿いには10軒ほどの人形専門店が軒を連ねており、年初からひな祭り前までの時期にはひな人形を求める家族連れでにぎわいを見せています。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を参考にしました。(順不同敬称略)
日本風俗史学会編『日本風俗大事典』1979弘文堂、倉林正次編『日本まつりと年中行事事典』1983桜風社、西山松之助・南和男ほか編『江戸学事典』1984弘文堂、国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第7巻』1986吉川弘文館、小木新造・陣内秀信ほか編『江戸東京学事典』1987三省堂、福田アジオ・新谷尚紀ほか編『日本民俗大事典』1999・2000吉川弘文館、加藤友康・高埜利彦ほか編『年中行事大事典』2009吉川弘文館
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