7月6日は、明治27年(1894)に日本における近代油彩画の草分け、高橋由一が亡くなった日です。
由一の生涯を振り返って、現代へのメッセージを探ってみましょう。
洋画との出会い
高橋由一(たかはし ゆいち)は、文政11年2月5日(1828年3月20日)に父で下野国佐野藩士だった源十郎と母・タミの子として江戸藩邸内で生まれました。
本名は浩、幼名猪之助、字は剛、号は藍川・華陰逸人で、由一の名は明治以降に名乗っています。
はじめ狩野派の絵師狩野洞庭や狩野探玉斎に学ぶいっぽうで、家業の弓・剣師範の継承を期待されていました。
本人もこの頃は藩務の余暇に日本画を学ぶ意識だったようです。
ところが、嘉永年間(1848~54)に西洋の石版画をみたとき、その迫真性に衝撃を受けて、洋画家を志します。
文久2年(1862)幕府蕃書調所画学局に入り、川上冬崖に油彩画の指導を受けました。
この時期に所内で進められていた博物図譜製作プロジェクトに参加し、植物や魚を描いた博物画を残しています。
しかしそれに満足せず、慶応2年(1866)横浜居留地のチャールズ=ワーグマンに実技指導を受けたうえに、慶応3年(1867)には清国に渡り、海外美術の研究を進めたのです。
由一の活躍
明治3年(1870)のパリ万国博覧会に「日本国童子二人一世邦翁の肖像画を観て感あるの図」を出品し、明治4年(1871)大学南校画学係教官に任命されるものの、翌年には退官します。
明治6年(1873)にはウィーン万国博覧会に大作「富岳大図」を出品しました。
同じ年に浜町の自宅に画塾天絵楼を創設、明治12年(1879)には東京府の認可を受けて天絵画舎と改称しています。
この画塾の学生は、およそ150名にもおよび、原田直次郎や、のちに日本画の大家となる荒木寛畝、川端玉章らが学んだのです。
由一は画塾の月例会に「花魁図」や「鮭図」を発表し、明治11年(1878)のパリ万国博覧会に油彩画を出品しました。
また、このころ来日していたイタリア人画家フォンタネージと交流しています。
さらに、明治12年(1879)の琴平山博覧会に、「なまり節」「鱈梅花」など37点もの作品を出品し、多くが現在も金刀比羅神社に収められています。
明治14年(1881)には「螺旋展画閣創築主意」を元老院の佐野常民をはじめ各方面に配布して美術館建設運動をはじめましたが、この螺旋式建築の美術館構想は実現されませんでした。
新機軸
いっぽう、このころから美術界全体に国粋的傾向が広まって洋画への逆風が強まった結果、由一は画塾閉鎖に追い込まれます。
この苦境に意外なところから救いの手が差し伸べられました。
明治14年(1881)には、山形県令・三島通庸から山形県下の土木事業を記録する仕事を依頼されたのです。
由一はこの仕事に精力的に取り組んで、明治18年には栃木・福島・山形三県の新道を石版画集『三県道路完成記念帖』にまとめました。
またこの取り組みの中から、写真を利用した油彩の風景画に新たな可能性を見出したのです。
明治27年(1894)7月6日死去、享年67歳でした。
高橋由一の歴史的役割
ところで、高橋由一の代表作といえば「鮭」で、写真と見まがうばかりの写実性に驚いた方も多いのではないでしょうか。
このように、由一の作風は対象の実在に迫ろうとする意欲が満ち満ちていますが、見方を変えると少し違って見えてきます。
じつは風景画にみられるように、空間把握の方法では、江戸名所図会的な構図を引き継いでいるのです。
また、静物画でも質感の表現にとらわれている点は、江戸中期からの江戸洋風絵画の性格を色濃く受け継いでいると言えるでしょう。
じつは由一はこのことに気づいていて、晩年は洋画を通じて江戸と明治という二つの時代をつなごうとしているのではないでしょうか。
晩年の明治26年(1893)に「洋画沿革展覧会」を開催して、司馬江漢・川上冬崖・アントニオ=フォンタネージを顕彰したのには、こうした由一の思いが託されているのかもしれません。
由一の絵画教室
その一方で、明治24年(1891)3月1日付け朝日新聞「華族の奥方、油絵をものにする、高橋由一に師事」によると、由一は身近な人たちを対象に絵画教室を開いました。
この記事でいう華族の奥方とは、旧紀州新宮藩主・水野忠幹男爵の3人目の妻・釥子(しょうこ)夫人のこと。
釥子夫人は三河国田原藩主・三宅康直の四女で嘉永3年(1850)1月21日生まれ、高橋由一が実父・康直を描いた作品も残されていることからみて、深い親交があったようです。
現在では、美術館設立運動や美術雑誌『臥遊席珍』を刊行するなど、油彩画啓蒙運動の先駆者として高く評価される由一ですが、草の根的な活動も行っているのには驚かされます。
また、記事では由一の優しい人柄が垣間見えて、ちょっと意外に感じました。
由一は結局、なによりも絵そのものが大好きだったのかもしれません。
(この文章は、文中の記事のほか、『国史大辞典』『明治時代史大辞典』『事典 近代日本の先駆者』『世界大百科事典』を参考に執筆しました。)
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