前回は、五島に捕鯨業が伝わったころをみてきました。
今回は、富江分知による境界紛争と、それを乗り越えて最盛期を迎える捕鯨業についてみていきましょう。
有川湾境界紛争
日本有数の豊かな漁場である有川湾は、もともと漁村である魚目村が漁業権のほとんどを持っていました。
その一方で、農村である有川村も生活のために漁に出る必要がありましたので、魚目村と長く漁業権をめぐって争ってきたのです。
さらに、前回に見たように江戸時代初めには捕鯨が有川湾でもはじまって莫大な利益を生むようになると、問題がこじれてしまったのは当然のなりゆきでしょう。
これにくわえて、富江分知で所領が分かれたために、漁業権をめぐる争いはさらに激化して、死者が出る事態にまで発展してしまいます。
幕府の裁可
問題解決の糸口さえ見えない状況になったことで、ついに幕府の裁可を仰いで決着を図ることとなりました。
元禄2年(1689)2月に下された幕府の裁可は、有川湾を入会とするもので、過去の富江領魚目村の優位が覆されたのです。
その後も紛争はくすぶり続けましたが、元禄3年(1690)にも同様の裁決が幕府から下されたことで、十年に及ぶ紛争はようやく終息しました。(以上『物語藩史』)
捕鯨法の革新
延宝5年(1677)紀州太地浦、現在の和歌山県太地町で、太地(和田)角右衛門頼治が、鯨をあらかじめ苧製の網にかけてから突取をおこなう網掛突取法を発明しました。(『くじら取りの系譜』『日本捕鯨史』)
あるいは、これより先に、大村の深沢儀太夫がイルカ網を苧網に改良して鯨をはっておいた網に追い込んで銛で仕留める捕鯨方法を考案したとする説もあります。(『物語藩史』)
いずれにせよ、この新しい漁法によって、これまで遊泳速度が速くて取るのがむつかしかった座頭鯨の捕獲が容易となったうえに、捕鯨の効率が大幅に上がる成果が現れました。
鯨のめぐみ
この新しい漁法は網を張るのに適した場所、網代が限られるものでしたが、有川湾にも魚目・有川の境界紛争中の延宝6年(1670)に導入されています。
さらに、境界紛争が解決したあとの元禄4年(1691)以降、毎年25~83頭の鯨を捕獲するという成果を上げました。
その後は、赤字の年もありますが、最大で一年間に銀316貫余、おおむね銀100貫前後の利益を上げるまでになったのです。(『物語藩史』所載の「青方文書」)
また鯨組は、鯨の捕獲に水主など200人余、捕獲した鯨の解体と加工を行う納屋には30人余、そのほかにも地元農漁孫から日雇い100~200人がいました。
このためので、鯨があがると地域でひろく利益を受けたのです。
そのうえ、例えば元禄13年(1700)には背美鯨一本につき銀一貫八百匁(金30両くらい)と、利益に応じて藩に運上銀を納めることができました。(『物語藩史』)
これは鯨の取れ高によるので不安定な収入ではありますが、藩にとってもまちがいなく魅力的だったに違いありません。
捕鯨業の衰退
しかし、正徳5年(1715)以降は捕鯨数の減少と卸値の低下に見舞われて赤字経営となってしまいます。
これを克服するために捕鯨組織を大型化したり、有川と魚目の共同経営としたり工夫をしますが、赤字傾向から脱却することはできません。
そしてついに、宝暦2年(1752)には地組の捕鯨権を放棄して有川庄屋江口甚右衛門一人に組請負を譲渡するまでになって、地域を支えてきた捕鯨業は下火となったのです。(以上『物語藩史』)
こうして一時期は五島藩の財政危機を救った捕鯨業は、卸値の低下がたたって急速に衰退しました。
こうなると、五島藩の財政悪化は止まる見込みが立たなくなってしまいます。
次回は、五島藩における極度の財政悪化が招いた悪夢をみていきましょう。
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