己を貫く人は、「自己中」と糾弾されてしまう現在を息苦しく思っている人はいませんか?
そんな方にこそ、ぜひ天皇機関説で有名な憲法学者の美濃部達吉の生涯をご覧いただきたいです。
何度もバッシングされながらも己を貫いた美濃部の生涯は、きっとあなたに勇気を与えてくれるはず。
それでは、美濃部達吉のいかにバッシング去れようとも自分の意見を貫き通したいた生きざまから、現在へのメッセージを探ってみましょう。
生い立ち
美濃部達吉は、明治6年(1873)5月7日に、兵庫県加古郡高砂材木町で医師を営む美濃部秀芳の二男として生まれました。
明治30年(1897)に東京帝国大学法科大学を卒業しますが、在学中から憲法研究の希望するものの、憲法講座を担当していた穂積八束と合わないために断念したといいます。
大学卒業後は内務省に入ったのち、依願免官して明治32~35年(1899~1902)に独英仏三か国に留学、この間に師・一木喜徳郎の斡旋により、明治33年(1900)東京帝国大学法科大学で比較法制史を担当する助教授に就任、明治35年(1902)には教授に昇進しています。
その後、明治41年(1908)には内務省に移った師・一木のあとをうけて行政法第一講座担当に移りました。
天皇機関説論争
歴史に名高いこの論争の発端は、明治44年(1911)夏に文部省の委嘱で中等学校教員のために行った憲法講座でした。
この中で、美濃部は天皇機関説を唱え、穂積憲法学の権力主義的性格を批判したのです。
さらにこの講座の内容を、明治45年(1912)春に『憲法講話』の題名で刊行すると、穂積の後継者である上杉慎吉が「国体に関する異説」として批判し、雑誌『太陽』を舞台に論争へと発展しました。
美濃部の説は学会や知識層で広く支持を受けていましたが、それに加えて美濃部が高等文官試験委員を務めていたことから、官界にも影響を持ったのです。
こうしたなか、大正9年(1920)より美濃部が憲法第二講座を兼任して、上杉との競争講義がはじまったのです。
その間に法制局参事官や法制審議会委員などの役職に就き、選挙法改正など多くの立法に関与しました。
また、東京商科大学教授や九州帝国大学教授などを兼任することになったのです。
このように、美濃部が数々の要職についたうえに、穂積・上杉の学説を継承するものがいない一方で、美濃部の学説が広く継承されることからみて、論争の結果は美濃部の勝利に終わります。
その後も、大正13年~昭和2年(1924~1927)東大法学部長、昭和7年(1932)からは貴族院議員勅選議員などを務め、昭和9年(1934)に東大を定年退官し、名誉教授となりました。
天皇機関説の主張、議院内閣制の支持、治安維持法、なかでも田中義一内閣の緊急勅令による改定への批判などを行ったのです。
また、昭和5年(1930)に海軍軍令部の反対を押し切って調印されたロンドン海軍軍縮条約の批准について、浜口雄幸首相から諮問をうけると、批准を支持しました。
天皇機関説事件
議院内閣制の支持、治安維持法への反対、ロンドン海軍軍縮条約批准支持などにより、美濃部は自由主義的憲法学の代表とみなされるようになりました。
このやめ、蓑田胸喜などの右翼勢力から攻撃対象とされたのです。
そして、昭和12年(1937)2月に貴族院において、蓑田とつながりがあり、上杉慎吉の政治的盟友であった上原勇作の部下・菊池武夫から攻撃を受けることになります。
美濃部はこれに対して議場で答弁の演説を行いますが、これが「国体明徴運動」という糾弾を一層激化させました。
これにより、政府は二度にわたって「国体明徴声明」を発表して天皇機関説を否定、美濃部の『憲法撮要』(1923)などの著作を発行禁止処分としたのです。
さらに、美濃部は不敬罪で告訴までされて、貴族院議員と高等文官試験委員の辞任を余儀なくされました。
しかも、翌昭和11年(1936)には、美濃部は暴漢の襲撃を受けて負傷してしまいます。
じつはこの事件、学問上の論争ではなく、美濃部への個人攻撃でした。
ではこの事件の真の狙いは、なにだったのでしょうか?
美濃部の師・一木枢密院議長の失脚をねらったとする説や、天皇機関説の主張者として知られた金森徳次郎法制局長失脚をねらったとする説、あるいは、岡田内閣を倒閣に追い込む策謀とする説などあげられているものの、真相は分かっていません。
オールドリベラリスト
こうして一線から退いた美濃部でしたが、終戦後に再び活躍の時代がやってきます。
昭和20年(1945)10月、幣原内閣の憲法問題調査会顧問に就任したのを皮切りに、昭和21年(1946)1月には枢密顧問官として憲法改正作業に関与、昭和22年(1947)には全国選挙管理委員会委員長を務めました。
ところが、昭和21年(1946)6月8日には枢密院において日本国憲法の政府原案にただ一人反対票を投じ、10月29日の最終案審議に欠席するなど、新憲法に反対する立場をとったのです。
これは、第二次世界大戦の終戦時に「国体を護持する」としていたのに、新憲法案は国民主権となって「主権変更」がなされたことが違反しているというのが理由でした。
このような美濃部の姿勢は、戦前の自由主義的言動を歓迎していた世間に驚きと失望をもたらして、「オールドリベラリストの限界」などと揶揄されたのです。
その後も日本国憲法の研究をつづけましたが、昭和23年(1948)5月23日、美濃部は76歳でその生涯を閉じました。
ちなみに、長男の亮吉は昭和42年(1967)から昭和54年(1979)まで、東京都知事を3期12年にわたって務め、福祉を重視した「美濃部都政」を行っています。
美濃部達吉は空気を読んで迎合することなく、いかなる圧力があっても自説を曲げない、学者として一貫した姿勢を守った生涯でした。
学問の世界にとどまらず、己を貫き通す人物は、現在ではともすれば「自己中」と非難されるご時世ですので、美濃部の生き方がかっこいいと思うのは私だけでしょうか。
(この文章では、敬称を略させていただきました。また、『国史大辞典』『日本史大事典』の関連項目を参考に執筆しています。)
明日(5月24日)
コメントを残す