5月4日・今日なんの日?

5月4日は柔道の創始者で教育家の嘉納治五郎が亡くなった日です。

そこで、嘉納治五郎についてみてみましょう。

教育者嘉納治五郎

治五郎は、万延元年10月28日(1860)に摂津国菟原郡御影村で酒造業・廻船業を営む治郎作と母・定子の三男として生まれました。

明治14年(1881)東京大学文学部政治学科および理財学科を卒業すると、翌年哲学羨選科も卒業。

その後、学習院では講師から教授、教頭となったほか、熊本の第五高等中学校校長、第一高等中学校(現在の都立日比谷高校)校長、東京高等師範学校校長などを歴任します。

そのほかにも明治32年(1899)には清国留学生のために亦楽書院(のちに弘文学院に発展)を創設するなど、教育に尽力しました。

若き日の加納治五郎(『加納先生伝』横山健堂(講道館、1941)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【若き日の嘉納治五郎(『嘉納先生伝』より)】

講道館設立

いっぽうで、治五郎は東大生だった明治10年(1877)に、体力的コンプレックスを克服するために福田八之助に天神真楊流柔術を学びはじめます。

その後、福田没後に同流宗家磯正智に学びますが、さらに明治14年(1881)に磯が没すると飯久保恒年について起倒流組討を治めます。

治五郎はこれら流派の長所を生かしたうえ、他流派も研究して技術的・精神的に研究を進めました。

当初は非力な自分が強くなるために学びはじめた柔術でしたが、次第に新時代の教育に生かそうと考えるようになり、その主眼を根本の道に置く「柔道」を完成させたのです。

治五郎は明治15年(1882)、東京府下谷区北稲荷町、現在の台東区東上野の永昌寺内に道場を開き、「講道館」と名付けました。

加納治五郎(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【柔道着姿の嘉納治五郎(出典:近代日本人の肖像)】

柔道の発展

治五郎の柔道は、「精力最善活用」を目的とした科学的原理に基づく体育であり、科学応用した合理的なものでしたので、次第に柔術諸派を圧倒していきます。

そうしたなか、明治19年(1886)に警視庁主催の対抗試合で講道館柔道は圧倒的な強さを見せたことをきっかけに、警察・軍隊、大学などで次々に導入されるようになります。

こうして明治20年代に入ると入門者が激増して、弘道館柔道が武道界で不動の位置を占めるまでになったのです。

講道館柔道発祥之地碑(上野・永昌寺境内)の画像。
【講道館柔道発祥之地碑(上野・永昌寺境内)】
講道館本部(『柔道年鑑 大正14年度』講道館文化会 編集・発行、大正14年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【大正時代の講道館本部正面(『柔道年鑑 大正14年度』より)】
大正時代の講道館本部(『柔道年鑑 大正11年度』講道館文化会 編集・発行、大正11年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【大正時代の講道館本部(『柔道年鑑 大正11年度』より)】

柔道の国際化

さらに治五郎は、明治22年(1889)をはじめとして12回もの外遊を重ね、柔道の海外普及に尽力します。

講道館出身の弟子たちや識者によってヨーロッパやアメリカで柔道を紹介して普及に努め、絶えざる努力によりJYUDOが世界に広めていったのです。

その結果、治五郎が亡くなったのちの昭和23年(1948)に欧州柔道連盟が発足すると、昭和26年(1951)国際柔道連盟に発展しました。

敗戦により武道が一時禁止された影響などを乗り越えて、日本でも昭和25年(1950)全日本柔道連盟が結成されると、昭和27年(1952)には国際柔道連盟に加盟したのです。

こうして柔道は日本を中心に発展し、東京オリンピックからはオリンピック正式種目となって、世界中で愛好されるまでになっています。

大正時代の加納治五郎(『柔道教範』横山作次郎・大島英助(二松堂書店、大正13年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【大正時代の嘉納治五郎(『柔道教範』より)】
加納治五郎の漫画(『加納先生伝』横山健堂(講道館、1941)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【嘉納治五郎の漫画(『嘉納先生伝』より) 東京オリンピック招致を題材にした漫画。治五郎自身も気に入っていたそうです。】

治五郎とオリンピック

治五郎は、広く体育とスポーツの振興に尽くしてきましたが、その功績が認められて明治42年(1909)アジアで初めてとなる国際オリンピック委員に就任します。

明治44年(1911)に大日本体育協会が設立されると初代会長に就任、翌明治45年(1912)第5回オリンピック・ストックホルム大会では日本選手団団長として三島弥彦・金栗四三両選手を選抜して参加、これが日本のオリンピック初参加となりました。

昭和7年(1932)第10回オリンピック・ロサンゼルス大会のために渡米すると、第12回大会開催地について東京招致を行います。

昭和13年(1938)にカイロで開催された国際オリンピック委員会総会で昭和15年(1940)開催予定のオリンピックについて、東京開催の正式決定を勝ち取るものの、帰路の氷川丸船中で肺炎のために急逝しました。

嘉納治五郎と勝海舟

嘉納治五郎は勝海舟の愛弟子としても知られています。

はじめてとなる渡欧の際に勝から送られたフロックコートを治五郎が終生大切にしていた逸話は大河ドラマ『いだてん』にも描かれました。

勝海舟(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【勝海舟(出典:近代日本人の肖像)】

この二人の師弟関係ですが、じつはその始まりが治五郎の父・治郎作にあることはあまり知られていません。

滋賀県で生まれた治郎作は、灘の酒造業・廻船業を営む嘉納家に養子に入りました。

じつは勝が文久3年(1863)神戸幕府海軍操練所を設置する際に協力したほか、勝の指導を受けて和田岬・神戸・西宮の砲台工事を請け負っています。

慶応3年(1867)には幕府所有の汽船、長鯨丸・奇捷丸・太平丸などの委託を受けて江戸―神戸―大坂間の定期航路を開設したのです。

この治郎作は明治18年(1885)に東京深川で病死しましたが、生前から わが子治五郎を勝に紹介して行く末を頼んでいたといいます。

勝も旧幕時代に恩を受けた治郎作へ報いる意味もあり、治五郎をたいそうかわいがっていたのです。

父・治郎作と勝海舟から想いを受け継いだ治五郎は、柔道を創設するなど大活躍するなかで、その想いも一緒に弟子たちに伝えたに違いありません。

加納治五郎(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【嘉納治五郎(出典:近代日本人の肖像)】

(この文章は、『嘉納先生伝』横山健堂(講道館、1941)と、『事典 近代日本の先駆者』『日本史大事典』『国史大辞典』『日本人名大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(5月3日

明日(5月5日

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