中島敦が生まれた日
5月5日は、明治42年(1909)に作家の中島敦が生まれた日です。
そこで、中島敦の足跡をたどってみましょう。
第一高等学校入学まで
中島敦は、明治42年(1909)5月5日、東京市四谷区箪笥町59番地、現在の東京都港区六本木で父・田人、母・千代子の長男として生まれました。
この時、父・田人は千葉県銚子町外二町五ヶ村組合立銚子中学教員、母・千代子も小学校の教員でした。
中島家は尾張国造、中島郡領主の末裔とされる名家で、代々清右衛門を称し、江戸の神田乗物町で駕籠を作る商家であるとともに、漢学者の家系でした。
祖父の中島慶太郎(撫山)、その弟栄之甫(杉陰)はともに亀田鵬斎に学んだ儒者で、田人の兄たちも漢学者になっています。
父・田人は時代の趨勢から漢学者になれなかったためか、数年ごとに勤務先を変えて、奈良県郡山、静岡県浜松、朝鮮京城、大連と次々と中学を移りました。
このような父に、母・千代子は敦が生まれた10か月後までに離婚し、まもなく結核にかかって死去します。
その後、敦6歳で迎えた第二母は妹・澄子を産んですぐに死去、16歳で迎えた第三母も昭和11年(1936)に死去しました。
このため、敦は小学校入学までを祖父母のもとで過ごし、その後は父に従って郡山、浜松、京城と移り成長します。
大正15年(1926)に第一高等学校に入学、在学中から創作をはじめています。
また、在学中からたびたび喘息の発作が起こるようになりました。
パラオ赴任まで
昭和5年(1930)東京帝国大学国文科に入学、昭和8年(1933)に卒業すると、歴史上名高い不況であったこともあり、私立横浜高等女学校で教職につきます。
昭和9年(1934)『虎狩』で「中央公論」懸賞に選外佳作となりました。
これ以後も持病の喘息に苦しみながら『狼笑記』(1936)などを執筆、昭和15年(1940)には『山月記』をはじめとする後に『古譚』にまとめられる作品群を完成させたとされています。
さらに翌昭和16年(1941)には『ツシタラの死』(のち『光と風と夢』に改題)を執筆。
しかし喘息の発作がたびたび起こるようになって週に一、二度の出勤という状態となったため、転地療養のために横浜高女を休職し、パラオ南洋庁国語教科書編集書記に就任します。
思わぬことに、パラオに赴任しても喘息は改善することがありませんでした。
このため、敦は在任わずか10か月足らずで南洋庁を退職し、東京に戻る決断します。
文壇デビュー
いっぽう東京では、先輩の深田久弥に預けていた作品が、深田の推挙によって昭和17年(1942)には『古譚』に収められる『山月記』『文字禍』、さらに『光と風と夢』が相次いで文学雑誌「文学界」に掲載されて、文壇へのデビューを果たします。
こうして敦は「芥川龍之介の再来」とも言われる高い評価と期待を受けて文筆業に専念、『名人伝』『弟子』や『南島譚』などの作品を執筆すると、次々と刊行されて好評を博ししました。
敦の死と名声
そうしたなか、持病の気管支喘息が悪化して入院しましたが、昭和17年(1942)12月4日、弱冠34歳で死去しました。
敦の死の翌年に『李陵』が発表されると、その文名はますます上がっていくことになります。
中島敦は、日本近代文学史上最悪とも言われる戦時下の状況で、彗星の如く出現し、文学の純粋な味わいを残して去った作家として人々の心に残りました。
また、その作品は『山月記』が高校の教科書に掲載され続けたこともあって、もはや国民文学といえるほど、日本人に深く愛されているのです。
近代日本と喘息
近代日本で多くの文人たちの命を奪った病気として、広く知られているのが結核です。
近年、再流行の兆しがあるとして予防キャンペーンが行われているのは、みなさんも目にしたことがあるかもしれません。
その一方で、喘息もまた多くの人々の命を奪ってきました。
この喘息は、ギリシャ古代の医師・ヒポクラテスのころから知られた病気ですが、現在もその治療方法は研究途中といいます。
日本において喘息で死亡した有名人をあげると、政治家の森恪(1932)、政治家の牧野伸憲(1949)、歌人の斎藤茂吉(1953)、阪急電車創業者の小林一三(1957)、作家の壺井栄(1967)などと、枚挙にいとまがありません。
そして近年でも年間1,000人前後もの方々が喘息の発作によってなくなっているのです。
私は、早世した中島敦の比類なき文才を想うとき、もし彼がもっと生きていたら、どれほどすばらしい作品が生まれただろうと想像してしまいます。
一刻も早く、喘息の治療法が確立して、この病気で苦しむ多くの人たちが解放されることを願わずにはおれません。
(この文章は、『近代文学大事典』『国史大辞典』関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(5月4日)
明日(5月6日)
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