ウィリアム・メレル・ヴォーリズの亡くなった日
5月7日は、昭和39年(1964)にウィリアム・メレル・ヴォーリズ(一柳米来留)が滋賀県近江八幡市で亡くなった日です。
ヴォーリズは宣教師・建築家・事業家など多彩な顔を持つ人で、なかでも建築家として35年間で1,000件を超える膨大な建築作品を残しています。
ヴォーリズはもともと建築家を目指していたものの、専門教育を受けていません。
そこで、建築家となるきっかけと、ヴォーリズの足跡をたどってみましょう。
八幡町YMCA設立
ヴォーリズは明治13年(1880)10月28日、アメリカ・カンザス州レブンワースで生まれました。
明治37年(1904)コロラド大学で哲学を学び卒業、コロラドスプリングス市YMCAに勤務します。

明治38年(1905)1月、滋賀県立商業学校、現在の滋賀県立近江八幡商業高校の英語教師となります。
同校で宣教活動を行って、10月には同校にYMCAを創設、いっぽうでは学校内で宣教への反発が強まって暴行事件にまで発展してしまいました。
そんななか、明治40年(1907)2月8日には八幡町基督教青年会館(YMCA)と教会を建てたのです。
しかし、キリスト教への反発が強まっていた近江八幡では強い反発を受けて、全く受け入れられません。
さらに、英語の授業内容は評価されたものの、宣教活動による混乱から3月に解雇されてしまいます。
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建築家へ
失意のヴォ―リズに、明治41年(1908)京都YMCAが会館新築工事の監督を依頼したのです。
これで建築家への夢を取り戻したヴォーリズは、なんと、アメリカから送られてきた雑誌をもとに建物を設計していったともいわれています。
こうしてついに京都YMCAの一室で建築設計監督業をはじめました。
その後、アメリカの最新式別荘が評判となり、徐々に設計の依頼が舞い込むようになります。
『近江の兄弟ヴォーリズ等』吉田悦蔵(警醒社書店、大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション-2-1024x683.jpg)
そこで、明治43年(1910)にはボーリズ合名会社という設計事務所を設立すると、仕事が安定して利益が出るようになったのです。
近江ミッション
建物の設計で収入を得るようになると、彼はその収入で明治44年(1911)には近江ミッション(近江基督教伝道団、近江基督教慈善教化財団を経て昭和9年(1934)から近江兄弟社と改称)を結成します。
大正4年(1915)軽井沢夏期事務所を建築、これがまた評判となったため、つづいて東京事務所も開設しました。
大正7年(1918)サナトリウム、現在のヴォーリズ記念病院を開設。
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大正8年(1919)一柳満喜子と結婚、ちなみに満喜子の実家・一柳家は、秀吉に仕えた戦国武将・一柳直末・直盛親子の末裔で子爵でした。
ここから、ガリラヤ丸による湖畔伝道、メンソレータムやアメリカ雑貨の販売事業を始めるなど、独自の伝道活動を展開します。
そのいっぽうで、数多くの建物の設計・監督を担当しつつ、東京帝国大学などで英文学を教えていました。
また、同志社カレッジソングの作詞者であるとともに、ハモンドオルガンを日本に紹介したことでも知られています。
昭和16年(1941)1月、妻の一柳満喜子の家に入籍し、日本国籍を取得、一柳米来留に改名していました。
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昭和33年(1958)近江八幡市名誉市民第1号に推挙されたのです。
昭和39年(1964)5月7日、近江八幡市で死去、享年83歳。正五位勲三等瑞宝章が贈られました。
建築家ヴォーリズの作品
ヴォーリズは35年間で1,000件を超える膨大な建築作品を残しています。
山形正昭によると、その内訳は、教会建築が約150棟、学校建築が約300棟、病院建築が約30棟、住宅建築が約400棟、商業建築が約70棟となっています。
ここからはヴォ―リズの建築をみてみましょう。
近江八幡基督教青年会館(YMCA) 明治39年(1906)
近江兄弟社旧本社社屋 明治44年(1911)
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近江サナトリウム(ヴォーリズ記念病院)大正6年(1916)
近江サナトリウム五葉別館(希望館)大正7年(1917)
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大丸大阪心斎橋店(Ⅰ期) 大正7年(1917)
『承業二十五年記念帖』竹中工務店-編集・発行、1938 国立国会図書館デジタルコレクション-3-1024x763.jpg)
広岡邸 大正9年(1919)

大丸大阪心斎橋店(Ⅰ・Ⅱ期)大正7年・10年(1917・1920)

松方朝熊邸 大正10年(1920)

神戸基督教青年会館(YMCA) 大正11年(1921)

加島銀行京都支店 大正11年(1921)

関西学院文科教室(原田キャンパス) 大正12年(1922)
『承業二十五年記念帖』竹中工務店-編集・発行、1938 国立国会図書館デジタルコレクション-2-1024x723.jpg)
関西学院中学講堂(原田キャンパス) 大正12年(1922)

ランバス女学院(聖和大学) 大正12年(1922)
『承業二十五年記念帖』竹中工務店-編集・発行、1938 国立国会図書館デジタルコレクション-2-1024x704.jpg)
大阪女子基督教青年会館 大正12年(1922)

大同生命ビルディング 大正12年(1922)
『大阪案内記:近畿陸軍特別大演習記念』国勢協会-編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション-3-1024x687.jpg)
関西学院図書館 昭和4年(1929)

近江セールズ株式会社 昭和9年(1934)
佐藤新興生活館(山の上ホテル) 昭和11年(1936)

ヴォーリズにみる国際交流
ヴォーリズの活動によって、近江八幡では独自の文化が発展していきました。
賀川豊彦をはじめ、多くの日本人がヴォーリズと交流をもち、強く影響を受けたのです。
ヴォーリズは成功したにもかかわらず、「近江八幡は世界の中心」といって離れることはなかったのです。
彼の死後、その業績を知る人が少なくなる中で、豊郷小学校保存問題が起こります。
その結果、ヴォーリズ建築が再評価されるとともに、彼の業績にも光が当たることになりました。
古くからヴォーリズ建築のファンである私にとって、これほどうれしいことはありません。
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(この文章は、『近江の兄弟ヴォーリズ等』吉田悦蔵(警醒社書店、大正12年)、『ヴォーリズの建築』山形政昭(創元社、1989)とヴォーリズ建築事務所Webサイトおよび『国史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(5月6日)
明日(5月8日)
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