6月13日は、昭和6年(1931)に北里柴三郎が亡くなった日です。
令和6年度(2024)から千円紙幣に肖像が使用されて注目が集まる柴三郎の人生を振り返って、現代のメッセージを探ってみましょう。
世界的大学者への道
北里柴三郎は、嘉永5年12月21日(1852年1月29日)肥後国阿蘇郡小国郷北里村で父・惟信と加藤海助の娘・貞子を母に、四男五女の長男として生まれました。
明治2年(1869)熊本藩の藩校・時習館に入りましたが、明治4年(1871)の廃藩置県とともに時習館が閉鎖されたため、熊本の医学所病院に入学して、オランダ医官マンスフェルトの指導を受けています。
明治5年(1872)に医学所病院は熊本医学校に改称されて、柴三郎はその塾監になったのですが、明治7年(1874)にマンスフェルトが辞任すると、ともに退校しました。
そのあと上京して、明治8年(1875)に東京医学校に入学、明治10年(1877)に東京医学校は東京大学医学部に改称しています。
柴三郎は、明治16年(1883)に東京大学医学部を卒業すると、明治17年(1884)内務省衛生局に就職し、明治18年(1885)11月からドイツ留学に派遣されたのです。
明治19年(1886)1月からロベルト=コッホに師事すると、明治22年(1889)はじめて破傷風病原菌の純粋培養に成功しました。
さらに翌明治23年(1890)には破傷風毒素を発見したうえ、ベーリングと協力して破傷風の抗毒素による血清療法を発見する快挙を成し遂げます。
これにより世界的な学者となった柴三郎は、明治24年には「プロイセン大博士」の学位称号を受け、翌明治25年(1892)5月に日本に帰国したのです。
伝染病研究所
柴三郎は帰国すると、芝公園内に新設された大日本私立衛生研究所の所長に就任しました。
明治27年(1894)に研究所は愛宕町に移転、さらに明治32年(1899)に長谷川泰らの尽力で大日本衛生会から内務省に移管され、国立の研究所となったのです。
その間にも、明治27年(1894)の香港におけるペスト流行の際には調査のため香港に派遣されて、フランス人エルザンとほぼ同時期にペスト菌を発見しています。
もともと柴三郎は、伝染病研究は衛生行政と一体であるべきとの信念を持っていましたが、大正3年(1914)に大隈内閣は、伝染病研究所を内務省より文部省に移管しました。
これは、伝染病研究と東大との二重状態を解消する学術統一を掲げつつも、実際は金のかかる伝染病研究機関を一つにまとめて財政支出を減らすのが狙いだったといいます。
信念が無視されたうえ、敵対する東大の傘下に入るという変革を柴三郎が甘んじて受けるはずもありません。
そこで、新たに私立の北里研究所の設立に着手、翌大正4年(1915)に研究所発足とともに所長に就任します。
また、大正6年(1917)には慶應義塾大学医学科設置を依頼され、開学とともに学科長に就任(のち学部長)となって、昭和3年(1928)まで勤めました。
さらに、大正13年(1924)には医学界での世界的業績により男爵を授与され、大日本私立衛生会会頭、日本医師会初代会長などを歴任しています。
昭和6年(1931)6月13日、東京麻布の自宅で死去、80歳でした。
柴三郎と福沢諭吉
北里柴三郎は、第1回ノーベル医学賞候補にも挙がった世界的な研究者となったため、欧米各国の研究所や大学から招聘依頼が舞い込んだといいます。
しかし、柴三郎は日本の脆弱な医療体制の改善と、伝染病の脅威から日本の国家と国民を救うことを何よりの使命と考えていたため、これらをすべて固辞しての帰国でした。
いっぽう、柴三郎はドイツ留学中に脚気が病原体を原因とする緒方正規の学説を否定し、批判していたのです。
緒方はかつての職場の上司であり、柴三郎のドイツ留学を実現させてくれた恩人だったので、柴三郎は「恩知らず」な人間というレッテルをはられてしまいました。
さらに柴三郎は、みずからと緒方の母校である東大医学部との対立にまで発展し、帰国しても受け入れてくれる研究機関がないという状態におちいったのです。
この状況を憂いて打破したのは福沢諭吉でした。
世界的な快挙を成し遂げたのに、それに見合った研究環境が用意されないのはおかしいと考えた福沢は、文字通り奔走して私立伝染病研究所を芝公園内に設立したのです。
さらに福沢は、研究所を適塾で共に学んだ長与専斎が副会頭を勤める大日本私立衛生会の所属として孤立を避けたうえ、財政支援を続けました。
この時に福沢から受けた恩に報いるため、慶應義塾医学部設立に全面的に協力し、その発展に生涯にわたって献身的に尽くしたのです。
柴三郎の信念
振り返ってみると、柴三郎の進む道は障害だらけといえるでしょう。
入学した学校は組織改革で廃止や改変にあい、海外で大成功を収めても日本では評価されず、成果を収めても自身の居場所さえなくなる事態に追い込まれました。
私生活でも長男の俊太郎が日光・中禅寺湖で心中事件を起こすなど、苦労が続いたといいます。
このように、度重なる困難を強い意志で乗り越えてきた柴三郎は、自他ともにきわめて厳しい一面を持っていました。
そこで、弟子たちは敬愛する柴三郎を「ドンネル先生」、日本語で言う「カミナリオヤジ」に近い意味を持つ愛称でよび、畏怖の念をもちつつ親しんだのです。
ところで柴三郎は、令和6年度(2024)から千円紙幣に肖像が使用されることが決まりました。
混迷が続く現在において、柴三郎のような困難に負けない強い意志が求められているのかもしれません。
(この文章は、『北里柴三郎伝』宮島幹之助・高野太郎 編(北里研究所、1932)、北里大学Webサイトおよび『国史大辞典』『明治時代史大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
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