音楽教育家の幸田延が亡くなった日
6月14日は、昭和21年(1946)に幸田延(こうだ のぶ)が亡くなった日です。
延は、時代の最先端切り開いたパイオニアで、その生涯は驚くことの連続。そこで、延の生涯をたどり、現在へのメッセージを探ってみましょう。
幸田延略歴
幸田延は、明治3年(1870)3月19日に旧幕府で表坊主役を勤めた父・幸田成延と、母・猷の長女として東京下谷に生まれました。
幸田家は、長男で延の兄は探検家の郡司成忠、二男の兄は文豪・幸田露伴、三男の弟は歴史家の幸田成友、末っ子の二女はバイオリニストの安藤幸という芸術一家でした。
10歳でアメリカ人音楽家メーソンに音楽を習います。
明治18年(1885)7月20日、文部省音楽取調所、のちの東京音楽学校の第一回全科卒業生となりました。
母校の音楽教師を務める一方、ディットリッヒの推挙で明治22年(1889)第一回文部省留学生に選ばれて、欧米に留学します。
イングランド音楽学校に2年間、ウィーン国立音楽学校で5年間学び、ピアノ、バイオリン、ビオラ、声楽、音楽理論を習得したのです。
明治28年(1895)に帰国すると、明治31年(1899)東京音楽学校でケーベルのピアノレッスン通訳を務めたのち、東京音楽学校ピアノ教授となりました。
実妹の安藤幸をはじめ、橘糸重、神戸絢子、杉浦チカ子らの東京音楽学校出身の女性教授陣の代表者となり、滝廉太郎や三浦環など、多くの才能を世に送り出しています。
その演奏と教育の両面にわたる目覚ましい活躍ぶりに「上野の西太后」「上野の女将軍」とのあだ名をつけられたほどです。
明治44年(1911)9月にスキャンダルに巻き込まれて辞任、以後は晩年まで自宅において個人授業を続けました。
昭和12年(1937)6月、音楽界からはじめて日本芸術院会員に任じられ、兄・幸田露伴、妹・安藤幸とともに芸術三兄弟として広く知られる存在となります。
昭和21年(1946)6月14日、77歳で亡くなりました。
山田耕作とのエピソード
幸田延について、山田耕作がこんなエピソードを記しています。
明治43年(1910)3月、作曲家への道を模索していた24歳の山田が、ベルリンのホホ・シュウレ(王立音楽院)受験を控えたときの出来事です。
受験でのアドバイスをもらおうと思い、延の宿を訪ねた山田は、はなたれ小僧の扱いを受けて「今にみてをれ!」と奮起し、見事合格を勝ち取ったのです。
そのあと山田の誕生日に、延から謝罪と激励のメッセージを込めた添詩集が送られていたそうです。
延の性格の一端を物語るエピソードですが、じつはこのとき、延がベルリンにいたのは、東京で不条理なバッシングを受けて東京音楽学校を辞してベルリンに滞在していたのです。
ここで少し時をさかのぼって、延を襲った激しいバッシングについてみてみましょう。
幸田延へのバッシング
東京音楽学校が、ようやくお雇い外国人依存から脱却した明治39年(1906)2月のこと。
日本における高所得女性について、宮中御用掛などを務める下田歌子に続いて、延が二位と報じられました。(『日本』明治39年(1906)2月25日付)
これまで音楽学校出身女性の活躍を称えてきた新聞各社の論調が、この時期を境に一変したのです。
まず、音楽学校内で、島崎赤太郎を中心とする師範学校系男性教授陣との反目が報じられていきます。
各種の噂話を集めた誹謗中傷だったものが、「百幣は女子弄権より」で音楽教育会での女性優位の状況への批判となったのです。(『朝日新聞』明治42年9月14日付東京版)
記事では男女スキャンダルをにおわせるものの、具体的な根拠はなく、単に女性優位が認められないという単純すぎる内容でした。
これが、延への公私に渡る、新聞に各種雑誌も加わった攻撃へと発展していったのです。
延が明治30年(1897)に日本で初めてとなる本格的楽曲『ヴァイオリン・ソナタ ニ短調』を初演したのにもかかわらず、「今日に至るまで、一の責任ある作曲も公にしない」(『帝国文学』明治42年第十五巻二号)など、ほとんどが間違った情報という悪質な報道でした。
このように、内容は悪意に満ちたデマによる個人攻撃でしたが、マスコミにあおられて社会的バッシングへとエスカレートしたのです。
こうした中、明治42年夏に三浦環のスキャンダルが新聞各紙をにぎわすことになります。
スキャンダルの内容は、三浦環の回(5月26日)をご覧いただくとして、その内容は実に些細なもの。
しかし、三浦は離婚問題で3月頃から新聞をにぎわしてきたこともあり、このスキャンダルの反響はすさまじいものがありました。
三浦環を辞職へ追い込んだにとどまらず、師である延も、格好の攻撃の的となったのです。
さらには同僚の武島又二郎とのスキャンダル報道まででっち上げられて、ついに延は東京音楽学校を去ることになったのです。
血のにじむような努力で道を切り開いたパイオニアを散々持ち上げた後、手のひら返しでバッシングするのは現在でもよくあることかもしれません。
しかし延が在野の音楽家となっても、作曲活動をつづけ、後進の育成を怠りませんでした。
そして弟子の三浦環は、このスキャンダル後に海外へと転じて、世界的プリマドンナになっています。(5月26日参照)
彼女たちは打たれてもまた立ち上がり、さらに前に進むことをやめなかったのです。
こうしてみると、女性活躍社会や男女共同参画社会の実現が叫ばれる今日において、幸田延という人物は、決して忘れてはいけない存在といえるでしょう。
(この文章は、『幸田姉妹』萩谷由喜子(ショパン、2003)、『図書館 新聞集成 明治編』石井敦 監修(大空社、1992)および『国史大辞典』『日本女性人名辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(6月13日)
明日(6月15日))
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