大鳥圭介の亡くなった日
6月15日は、明治44年(1911)に政治家の大鳥圭介が亡くなった日です。
大鳥は、旧幕臣として戊辰戦争を戦い抜いたにもかかわらず、明治政府でも多方面に活躍した波乱万丈の人生を歩んだ人物です。
そこで、大鳥の人生から、現代へのメッセージを読み解いてみましょう。
広く知識を吸収
大鳥圭介は、天保4年2月25日(1833年4月14日)に、播磨国赤穂郡の医師・小林直輔の子として生まれました。
備前の閑谷黌で漢学を修め、大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学・医学を、さらに江戸の坪井忠益の塾で物理学・生理学・医学と兵法や砲術を学びました。
そののち、江川太郎左衛門英敏の江川塾で蘭学による兵法講師を務めるいっぽう、中浜万次郎(ジョン万次郎)やヘボンから英語や西洋砲術を学んでいます。
またこの時、薩摩から黒田清隆や大山巌が江川塾に入り、大鳥から学んでいます。
慶応2年(1866)、江川からの推薦で幕臣となり、幕府開成所の教授に就任し、洋学を指導するかたわら、西洋兵法書の翻訳作業に従事しました。
陸軍軍人として活躍
また、慶応3年(1867)歩兵奉行に任ぜられて、フランス陸軍を実地で学んで、陸軍伝習所で幕府軍の精鋭・伝習隊を編成しました。
こうして国内で緊張が高まるなか、大鳥は幕府陸軍の近代化・強化に努め、幕府軍の洋式訓練を担当したのです。
幕府陸軍は第二次長州征伐・芸州口の戦いでその実力を天下に示しましたが、明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いでは将軍徳川慶喜の逃亡により敗北します。
大鳥は、戊辰戦争において慶喜が江戸城無血開城したのに対して、小栗上野介・榎本武揚らとともに徹底抗戦を主張し、江戸城が開城した4月11日に伝習隊を率いて脱走したのです。
その後は本所、市川を経て小山、宇都宮、今市に転戦して、途中で新選組副長土方歳三や会津藩士秋月登之助、桑名藩士辰見勘三郎などと合流していきました。
しかし母成峠の戦いで壊滅的被害を受けて(維新の殿様・柳川藩編第46回参照)、蝦夷地に渡り、榎本らと箱館・五稜郭に籠り、陸軍奉行に就任します。
しかし、黒田清隆率いる官軍に箱館総攻撃を受けて明治2年5月18日(1869年6月27日)に降伏、投獄されました。
産業育成の専門家として活躍
明治5年1月6日(1872年2月14日)に黒田の尽力により赦免され、明治新政府に出仕、開拓使御用掛に任命されます。
2月には大蔵少丞兼任を命じられて、外債募集のためにアメリカとイギリスに派遣された特使吉田清成の随行し、外債募集を成功させたのです。
その後、イギリスとアメリカで産業革命の現状や、さまざまな産業の施設・工場を見学して、明治7年(1874)4月に帰国しました。
帰国後は西洋近代産業に通じた貴重な人材として重用され、明治8年(1875)6月からは工学権頭兼制作頭、11月からは工部頭に任命されて工部寮の経営を任されました。
明治9年(1876)と13年(1880)に内国勧業博覧会御用掛に任命されて、最後は審査部長を務め、明治政府の国策・殖産興業に大きく寄与しました。
教育者として活躍
明治9年(1876)に伊藤博文が工部省内に創設した工部美術学校の校長に就任、工部技監を経て明治15年(1882)8月に工部大学校長に就任します。
しかし明治18年(1885)に工部大学校が文部省に移管されて、東京帝国大学工科大学校に改組されると退任し、明治19年(1886)には学習院校長に就任すると、翌明治20年(1887)には華族女学校長を兼任して教育現場で活躍しました。
外交官として活躍
明治22年(1889)6月、特命全権清国駐箚公使として赴任し、明治26年(1893)からは朝鮮駐箚大使を兼任します。
明治27年(1894)甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発すると、朝鮮政府が反乱鎮圧のために袁世凱を通じて清国へ出兵要請を要請したのです。
一時帰国中にこれを知った大鳥は、すぐさま帰任して朝鮮政府に清国軍撤退と内政改革の断行を迫るなどの外交政策を展開して、日清戦争のきっかけを作りました。
この年の11月、外交面での功績が認められて枢密院顧問官に任じられたうえ、明治33年(1900)5月には勲一等瑞宝章と男爵を授与されたのです。
明治44年(1911)6月15日、神奈川県足柄下郡国府津村、現在の神奈川県小田原市で食道ガンのため亡くなりました、享年79歳。
変化を畏れない
ここまで大鳥の人生をみてきましたが、その変わりぶりには驚くばかりです。
幕府陸軍をしきして戊辰戦争を戦い抜き、明治新政府に出仕してからも産業育成、教育、そして外交と、さまざまな分野で結果を残しています。
大鳥の持つ個人能力が高いのはまちがいないものの、時代の要請に合わせて、次々と新しい分野に飛び込む勇気はすばらしいといえるでしょう。
いかに生き抜くかが問われる激動の現在、大鳥圭介の生きざまは、まさに手本とするにふさわしいのかもしれません。
(この文章は、『国史大辞典』『明治時代史大辞典』を参考に執筆しました。)
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