松方コレクションで名高い松方幸次郎が亡くなった日
6月24日は、昭和25年(1950)に実業家・美術収集家の松方幸次郎が亡くなった日です。
そこで、松方の波乱に満ちた生涯をたどってみましょう。
川崎造船所社長就任まで
松方幸次郎(まつかた こうじろう)は慶応元年12月1日(1866年1月17日)、松方正義の三男として薩摩国鹿児島に生まれました。
明治14年(1882)東京大学予備門に入学するものの、明治16年(1883)に中退。
明治17年(1884)にアメリカへ渡り、ラドガース大学、イエール大学に学び、のちパリのソルボンヌ大学に移りました。
明治23年(1890)帰国すると、明治24年(1891)第一次松方内閣の組閣に際して父の秘書官を務めましたが、のちに実業界に転じます。
明治27年(1894)日本火災保険会社副社長、明治28年(1895)灘商業銀行監査役、明治29年(1896)高野鉄道取締役を経たのち、創業者の川崎正蔵に見込まれて川崎造船所社長に就任しました。
栄光と挫折
資金調達に才能を見せ、ドック築造を実現し、造船関連の施設と技術力充実に力を注いで川崎造船所を日本を代表する近代造船会社に育て上げたのです。
また、明治39年(1906)には鉄道車両製造にも進出したほか神戸瓦斯、神戸新聞、北浜銀行、九州電気鉄道、九州土地、旭石油、国際汽船の社長や重役を務めたうえに、明治41年(1908)には神戸商工会議所会頭に就任しました。
川崎造船所では、第一次世界大戦の勃発を受けて、鉄鋼材の大量入手を行い、受注生産を見込み生産に切り替えて莫大な利益を上げています。
大戦期のヨーロッパ滞在中の見分から、欧州の戦後復興が難航すると見込んで、船舶の売り惜しみと見込み生産を継続しましたが、予想に反して戦後に船価が急落してしまいました。
さらに、海運不況に見舞われて海運業も不振となったばかりか、鉄鋼材供給のために設立した製鉄工場も戦後の鉄鋼需要の低迷に直面したのです。
しかも、期待した海軍関連の需要も、戦後の軍縮で伸びがありません。
経営不振の川崎造船所を支え続けた、兄の巌が頭取を務める十五銀行が昭和2年(1927)に取り付け似合うと、ついに川崎造船所の経営は破綻し、昭和3年(1928)に幸次郎は川崎造船所社長と、他の会社役員を辞職しました。
いっぽう、幸次郎は明治45年(1912)から大正3年(1914)と、昭和11年(1936)から20年(1945)衆議院議員をつとめ、昭和21年(1946)公職追放を受けています。
昭和25年(1950)6月24日に死去、享年84でした。
松方コレクション
ここで名高き松方コレクションについても見ておきましょう。
幸次郎は、大正5年(1916)の渡欧のときから美術品収集をはじめました。
ロンドンで美術商の岡田友次より、浮世絵8,000枚が売り出されたことを知り、アメリカへと渡るのを恐れた幸次郎は、なんとそっくり買い求めたのです。
こうして、フランス人宝物商のヴェヴェールが収集した浮世絵を購入して松方コレクションがはじまりました。
幸次郎は、浮世絵8,000点と油絵300点を東京上野の国立博物館に寄贈します。
さらに、第二次世界大戦中にパリに残していた名画や彫刻は、講和条約が結ばれたのちにフランスから返還されたのです。
これらの作品が、フランスのル・コルビジュ設計の上野・西洋美術館が完成した時に、美術館に収められています。
経営者としての幸次郎
さて、まさに波乱万丈の松方幸次郎の人生ですが、じつは忘れてはならない大きな業績があります。
幸次郎は、川崎正蔵に見込まれて株式会社に改組されて川崎造船所の社長に弱冠30歳で迎え入れられたのは前にみたとおりです。
しかし就任後すぐにドッグの建造という難題に直面しました。
造船所の地盤が軟弱なため、ドッグ建設は想像を絶する難工事となり、完成までに6年もの歳月と莫大な借金が必要とされたのです。
明治35年(1902)に社運を賭けたドックがようやく完成すると、内外の船会社から仕事の注文が殺到しました。
この成功で自信を深めた幸次郎は、以後、大幅に施設を拡充させていきます。
また、欧米の造船所を視察したうえ、文献を入手して研究するなどして、事業の多角化を推し進めたのです。
こうして幸次郎の積極的な経営により、川崎造船所は三菱造船所にも肩を並べる造船会社にまで成長したのです。
さらに、第一次世界大戦がはじまると、ストック・ボートとよばれる船舶の見込み生産で巨利を得て、それを投入して膨大な西洋美術品を収集したのはみなさんもご存じかもしれません。
いっぽうで、利益は社員にも還元されています。
大正8年(1919)の労働争議の際、日本ではじめて8時間労働制を導入して産業界を驚かせた事実は注目してよいでしょう。
結婚したい理想の男性
ここまでみてきたように、松方幸次郎という人物は、経営手腕は一流であったうえ、ユーモアと優しさにあふれる人柄だったことがわかります。
大正時代には、記者として名をはせた下山京子から、結婚したい理想の男性にも選ばれる人気ぶりでした。
しかも美術には全く興味がなかったのに、膨大な美術品を収集したのも、当初から寄附することで、事業の利益を社会還元する意図があったといいます。(以上『財界楽屋新人と旧人』による)
薩摩訛りを話し、ヘビースモーカであったという松方幸次郎は、どこまでもかっこいい人物だったのかもしれません。
(この文章は、『川崎造船所四十年史』(川崎造船所 編集・発行、昭和11年)、『財界楽屋新人と旧人』朝日新聞社経済記者 共編(日本評論社、大正13年)および『事典 近代日本の先駆者』『国史大辞典』『日本大百科全書』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(6月23日)
明日(6月25日)
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