薬学者・田原良純が亡くなった日
6月3日は、昭和10年(1935)にフグ毒・テトロドトキシンを発見、命名した薬学者の田原良純が亡くなった日です。
そこで、田原の事績を振り返りつつ、現代へのメッセージを探っていきましょう。
まわり道
田原良純は、安政2年(1855)7月6日、佐賀藩士・田原右源次の長男として佐賀県西田代町で生まれ、佐太郎と名付けられました。
明治4年(1871)藩より選ばれて東京遊学の命を受けて、丹羽藤吉郎とともに上京、東京大学の前身、大学南校ドイツ語学科に入ります。
しかし、田原にとって、最初の衝撃的な出来事が起こります。
なんと、学制改革によりドイツ語学科が廃止られたのです。
そこで田原と同期の丹羽や下山順一郎は、大学東校に新設された製薬学科にそのまま移りました。
いっぽうの田原は、鉱山学の実地修学を目指して秋田の小坂鉱山に勤め、明治8年(1875)7月3日に工部省鉱山寮に任官します。
なぜドイツ語学科から鉱山学に進んだかというと、じつは大学南校のドイツ語学科は、鉱山学やその他の物理・化学など教えて鉱山学科とも称していました。
こうして田原は、当時は採鉱や冶金の分野はドイツ技術者を招聘して新しい技術を習得していたため、その通訳を務めていたのです。
挫折からの復活
明治10年(1877)1月、九等技師に昇格して東京に戻ると、田原を大きなショックが襲います。
なんと、かつての同期生たちは、みんな立派な化学者となりつつあったのでした。
この状況に大きな衝撃を受けた田原は、かつての恩師である柴田承桂に相談するほかありませんでした。
柴田の助力で、かつての同期生たちに大きく後れを取りつつも、なんとか東京大学製薬学科、現在の薬学部に進みました。
明治14年(1881)に東京大学を卒業(第3期生)すると、衛生試験所に任官されました。
ここでエイクマンのもとで衛生試験・食品分析を学び、国民栄養基準を設定したのです。
明治18年(1885)、衛生局東京試験所長の長井長義がドイツに私費留学したため所長代理となったあと、明治20年(1887)には所長に就任するとともに、日本薬局方調査委員に任じられます。
明治23年(1890)には在官のままドイツ留学を命じられ、ベルリン大、フライブルグ大、ミュンヘン大で3年にわたり、薬学と科学を学びました。
その後、ロンドン・パリ・ローマなどで衛生事業を視察して、明治26年(1893)6月に帰国します。
明治27年(1894)には、ハンガリーのブタペストで行われた万国衛生会議に出席、また明治32年(1899)には薬学博士号を取得しました。
薬化学の発展に寄与
明治30年(1897)足尾鉱山鉱毒事件が数万の住民が飢餓に瀕する社会問題に発展する中で、田原は政府の命を受けて現地に赴きます。
綿密な調査の結果、科学的で精密な分析結果を報告し、事件解決に向けてのきっかけを作りました。
また、明治45年(1912)にはフグの卵巣からフグ毒成分の結晶を抽出し、テトロドトキシンと命名したのです。
大正3年(1914)第一次世界大戦が勃発すると、輸入薬品が欠乏しましたが、この危機を克服すべく、今度は製薬の工業化に大きく貢献します。
その後も、日本化学会会長、日本薬学会副会頭、日本薬局方主査委員、帝国学士院会員などを歴任し、薬化学に多くの業績を残しました。
昭和5年(1930)病気のためすべての役職を辞任、昭和10年(1935)6月3日没しています。
テトロドトキシン
田原の業績で最も有名なのがフグ毒の研究ですが、着手したのは明治17年(1884)でした。
じつは明治11年(1878)から高橋順太郎と猪子吉人がフグ毒に挑み、基本的性質を解明したところで行き詰っていたのです。
さらに、明治18~25年(1885~92)の8年間で、フグ毒中毒者933人、うち死者が680人も出ていた事実が田原をフグ毒に向かわせるように後押ししました。
しかし、研究に進展がみられない状況で、ドイツ留学のためにいったんは中断を余儀なくされます。
ドイツ留学時代に、ベルリン大学で牡丹根皮からペオノールの抽出と合成に成功、フライブルク大学では福寿草から新多糖体を発見してアドニンと名付けるという成功を収めました。
こうして、研究を進める自信を取り戻した田原は、前にみた足尾鉱毒事件の科学的調査などを経て、ようやく明治42年(1909)フグ毒の研究を本格化させました。
しかし、植物成分の分析で成果を上げた田原でしたが、動物由来の成分は酵素やタンパク質が大きく影響して困難を極めます。
そしてついに明治45年(1912)フグの卵巣からフグ毒成分の結晶を抽出、テトロドトキシンと命名しました。
この研究により、大正10年(1921)帝国学士院賞を受賞しますが、田原のフグ毒研究は、みずから純粋結晶を得ていないと課題を指摘しつつ、ここでフグ毒の研究を終わりにしたのです。
というのも、じつは第一次世界大戦により輸入薬品が欠乏し、日本の医療が危機に陥っていたため、薬品の国産化という一大事業に取り組むことになったのでした。
いっぽうでは、田原の時代の研究方法では、酵素とタンパク質などの生化学や、超微量分析法などの周辺科学の進展がなければ、これ以上の解明は難しい状況でもあったようです。
田原の没後もフグ毒の研究は進められて、昭和27年(1952)に岡山大学横尾晃教授らによりはじめて純粋結晶が得られました。
さらに、名古屋大学平田義正教授と三共株式会社の津田恭介が昭和34~35年(1959~60)にかけて正しい分子式を確定させたことで、医学や漁業に進歩をもたらしています。
田原良純の偉大さ
このように田原良純は薬化学の分野に大きな業績を残しました。
それと同時に、大きな挫折を経験した田原のあゆみは、二つのとても大切ことを教えてくれます。
人生はまわり道をしても大丈夫、やり直せばいいのです。
そして、できないことは、できるところまでやって、後進に託せばよいのです。
田原良純は、その業績はもちろん、こうした意味でもぜひとも憶えておきたい人物といえるでしょう。
(この文章は、田原良純『天然物有機化学研究史におけるフグ毒テトロドトキシンの研究と田原良純について』山下愛子「科学研究」7(81)日本科学史学会 編(日本科学史学会・第一書房、1968)および『事典 近代日本の先駆者』『日本大百科全書』『朝日日本歴史人物事典』などを参考に執筆しました。)
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