7月2日は、昭和49年(1974)に「カルピス」の生みの親、三島海雲が亡くなった日です。
生涯公益を追求した「日本一の超世俗的経営者」と称賛される海雲の人生から、現代へのメッセージを読み取ってみましょう。
生涯の師・杉村楚人冠との出会い
三島海雲(みしま かいうん)は、明治11年(1878)7月に大阪府豊能郡萱野村の教学寺十三世住職の父・法城と、村の名門中道家から嫁いだ母・雪枝の長男として生まれました。
京都西本願寺文学寮高等科に入学し、生涯にわたり師と慕う杉村楚人冠と出会っています。
明治32年(1899)に文学寮を卒業すると、山口県の開導中学で英語教師を1年間務めましたが、学問を続ける志を得て辞職し、東京の仏教大学に入学しました。
内蒙古時代
明治35年(1902)に大学を卒業すると北京の東文学舎の教師となり、中国に渡りますが、翌年に退職して東文学舎で知り合った土倉五郎と日華洋行という会社を興して事業を始めたのです。
日華洋行では、日本と中国、蒙古間の貿易に従事しましたが、さまざまな失敗や成功を繰り返して経験を積んでいきました。
また、このころ、東洋史家の羽田亨と桑原隲蔵と出会い、終生深く交友しています。
日露戦争が勃発すると、三島は積極的に日本と日本軍に協力し、佐々木安五郎と協力して蒙古の馬を日本軍に売る事業をはじめました。
ここから蒙古とのつながりができて、明治41年(1908)夏に内蒙古を旅してヘシクテン旗まで進んだ三島は、ジンギスカンの時代から伝わるとされる「王者の食物」という秘薬の乳製品に出会ったのです。
この秘薬に感銘を受けた三島は、この地で「牛酪」「乳豆腐」「乳餅」「ジョウヒ」などの乳製品の製造方法を習得しました。
その後、三島は明治42年(1909)に日本製の銃器を販売して得た利益で、メリノ種羊の飼育と改良事業に着手します。
この事業は、大隈重信の支援を得た一大事業でしたので、三島が日華洋行をやめて全精力を傾けて取り組みました。
ところが、明治44年(1911)には辛亥革命が起こったことで事業継続は不可能となったため、すべての事業を手放して、大正4年(1915)に無一文となって帰国したのです。
カルピス誕生
前にみたように、明治41年(1908)夏、三島はヘシクテン旗で蒙古の酸乳について研究をはじめていました。
帰国して、日本でブームとなっていたヨーグルトを口にした三島は、その味がよくなかったために、モンゴルで習得した乳製品の商品化を決意します。
かつて日華洋行で働いていた京都市議会副議長の橋井孝三郎や、恩師の杉村楚人冠、旧知の実業家・土倉龍次郎らの援助を受けて、東京で牛乳から作った「醍醐味」を事業化するも失敗します。
つづいて乳酸菌入りキャラメルを開発、これをラクトーキャラメルと命名し、大正6年(1917)にラクトー株式会社を設立して販売するも、またもや失敗しました。
それでも三島はあきらめずに研究を続けて、偶然にも脱脂粉乳と砂糖から新しい発酵乳飲料の開発に成功すると、これを「カルピス」と命名します。
「カルピス」の名は、乳酸カルシウムと、サンスクリット語で醍醐味を意味する「サルピルマンダ」とを合わせた造語でした。
「カルピス」は、さわやかなイメージを演出するために、大正8年(1919)7月7日の七夕にあわせて発売されました。
カルピスの誕生には、作曲家の山田耕作、歌人の与謝野晶子・寛夫妻や、岡本一平・かの子・太郎一家も協力したといいます。
その後、キャッチフレーズ「初恋の味」や、銀河を模した水玉模様の包装、「黒ん坊マーク」などの巧みな宣伝広告が流行して、不動の人気を得ることになります。
また、関東大震災の折には、被災地に社長の三島自らがカルピスを積んだトラックに乗って被災地でふるまって、飢えと渇きに苦しむ被災者を助けたことで、カルピスの名は津々浦々にまで知れ渡ることになったのです。
こうして、三島の生み出したカルピスは国民的飲料とよばれるまでになりました。
海雲は設立から昭和45年(1970)までカルピスの社長を務め、昭和49年(1974)12月28日に享年96歳で没しています。
「国利民福」
三島は、自分や会社の利益よりも、あくまで「国利民福」を追求しました。
昭和37年(1962)12月には、私財の一切を投じて学術振興を目的とする財団法人三島海雲記念財団を設立しています。
さらに、飲料や食品の研究はもちろん、高く評価されている『仏教聖典』の発行事業などの仏教研究や歴史文化研究にも助力を惜しまなかったのです。
こうして96年の生涯を閉じるまでさまざまな学術研究を支援し続けた三島の人生は、志と哲学を持つ経営として、現在も尊敬を集めています。
母・雪枝の奮闘
偉大な経営者となった三島海雲ですが、じつは幼いころから病弱で吃音に苦しんでいたといいます。
父はさじを投げていましたが、母の雪枝が粘り強く愛情をもって、独力で育てあげたのです。
三島が言葉を発することができたのは、ようやく5歳になってから、雪枝は良い医者があればどんなの遠くでも背負って行き、良い薬があると聞けば自分の晴れ着をたたき売ってでも買ったといいます。
また学校で、カンニング事件のワナを仕掛けられて犯人に仕立てられた挙句に、落第処分を受けたときも、母は三島に合った学校を探してきてくれたそうです。
その後も、実家の教学寺は檀家の少ない貧乏寺でしたので、母は銭湯を経営して海雲の教育費用をねん出しています。
偉大な経営者・三島海雲を生み出したのは、この母の想像を絶するがんばりだったといえ、この母がなければその才能が開花することもなかったのです。
しかし、これは完全なワンオペ育児で、誰もが まねできるものではありません。
そうしてみると、三島の例からは、社会全体で子供を育てることが、結果として社会の利益となるかがわかるでしょう。
(この文章は、『名創業者列伝』山本健治(経林書房、2005)、『カルピスを作った男 三島海雲』山川徹(小学館、2018)を参考に執筆しました。)
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明日(7月3日)
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