前回みたように、天童藩は奥羽鎮撫使先導役を務めるいっぽうで、奥羽諸藩の中で孤立しはじめていました。
そこで今回は、戦火がいよいよ天童におよぶ様子をみていきましょう。
開戦
4月24日、ついに清川口で新政府軍による庄内藩攻撃が開始されましたが、庄内藩からの強力な反撃で撤退を余儀なくされてしまいます。
この開戦により庄内藩では主戦派が発言力を増して、酒井民部・岡吉之丞率いる庄内藩兵が柴橋・寒河江陣屋を占領して収納米を接収します。
彼らは藩主の命を無視して各地に進撃し、その勢力範囲を広げていきましたが、その最終目的地を天童に定めたのです。
これを察知した新政府側も大八を天童に帰還させるとともに、山形藩などに支援を命じました。
こうして最上川をはさんで庄内藩兵と天童藩兵を中心とする連合軍が対峙することになるのですが、銃をみても庄内藩の新式中に対して貧乏な天童藩は火縄銃だったといいますから戦意・装備ともに圧倒的に庄内優位なのは歴然、烏合の衆である新政府側の士気がさらに下がったのは言うまでもありません。
ついに閏4月4日に庄内藩兵は渡河を開始すると破竹の勢いで進撃、大八はなんとか防戦するので手一杯となったのでした。(以上『物語藩史』)
天童炎上
そんな中、庄内藩別動隊千人が、家老の高沢茂左衛門が守る天童を急襲したのです。
「四月四日賊千人計川ヲ越天童へ打入城下不残致放火候(賊千人ばかり川を越えて天童に打ち入り残らず放火いたし候)」(『太政官日誌 第三十九 慶応四年戊辰秋七月』「薩州藩届書写」)
庄内藩兵は町の各地に放火しながら進軍すると、藩主信敏と先代藩主信学は仙台藩領秋保まで逃げ延びました。
天童は、陣屋をはじめ町屋230軒あまりと、町のほとんどを焼失したうえに、戦死者13名を出したのに加えて庄内藩兵や他領の住民から略奪・暴行を受けて、目も当てられない惨状となったのです。(以上『物語藩史』『地名大辞典』)
庄内藩兵の天童襲撃の一報を受けた庄内藩主酒井忠篤は大いに驚き、その行動を責めるとともに即時撤兵を命じたので、庄内藩兵は天童から引き上げました。
新政府軍も救援の兵を差し向けましたので、ここで戦闘はいったん収束したのです。
庄内藩との交戦後、大八は楯岡に逃れましたが、彼に懸賞をかけて血眼に探す庄内藩兵たちから逃れるために、彼を支持する商人や豪農にかくまわれて情勢を見守っていました。(以上『吉田大八』『物語藩史』)
奥羽列藩同盟の成立
危機を脱したかに見えた天童藩ですが、さらなる困難が降りかかることになります。
天童焼討ちのあった閏4月4日、米沢・仙台両藩は、家老名で書状を送り、東北諸藩の重役に参集を呼びかけました。
そして同11日に白石で列藩会議が開かれて会津藩赦免の嘆願が行われます。
このなかで仙台にいた奥州鎮撫使参謀・世良修蔵が暗殺されて、奥州の官軍はいっきに窮地に立たされました。
さらに5月3日には列藩会議が開かれて、奥羽25藩と北越6藩が加わって、薩摩・長州の暴挙を並べて断罪するとともに、会津・庄内両藩の赦免を求める嘆願書が太政官に送られたのです。(以上『物語藩史』『山形県の歴史』)
天童藩の選択
こうした中、閏4月18日には新庄の沢副総督から天童城下の罹災者に金一千両が送られたり(『物語藩史』)、新政府から危急救助金五千両が下賜されたり(『三百藩主人名辞典』)と、新政府側に天童藩支援の姿勢がみられるのは、こうした事態に至った責任を感じたこともあるのでしょうが、窮地に陥った官軍を天童藩が見限ることを避けたいという意味合いが大きいのではないでしょうか。
しかし、大八が身を隠したことで、それまで大八たちの行動を危惧し、その独断専行を恨んでいた天童藩の保守派が台頭して藩を掌握しました。
そして奥羽列藩同盟が成立したことで、新政府側に残って戦うか、先導役を返上して同盟に加わるかの二択となったのです。
当然、天童藩が選んだのは後者でした。
4月19日には藩重役会議を開いて先導役を返上するとともに、大八の持っていた権限をはく奪して謹慎に処したのです。(以上『吉田大八』『物語藩史』『地名大辞典』『全大名家事典』『三百藩主人名事典』)
あくまでも官軍についたのは大八の独断だったとして、すべての責任を大八ひとりに負わせて、藩や自分たちの保身を図ることにしたわけです。
ただ、天童藩重役たちのためにも付言すると、天童攻撃を避けて非難した先代藩主信学が、仙台藩の保護下に置かれていた、つまり人質状態だった事実も忘れてはいけません。
桂太郎の極秘訪問
こうして大八の身に危険が迫る中、本庄を守備していた長州藩兵の隊長を務めていた桂太郎が、大八の隠れ家をひそかに訪れて、本庄への避難を勧めたのです。
すでに情勢を見切っていたからか、あるいは故郷天童を捨てられなかったのか、大八は桂に感謝しつつも、その誘いは断ったのでした。
さらに、沢副総督からも大八の処分を解くように求めてきましたが、保守派が掌握した藩はこれを無視したのです。(『吉田大八』『物語藩史』)
天童藩の寝返り
閏4月28日、酒井吉之丞は庄内藩兵を率いて区の本村まで進軍し、同盟に参加しない場合は再び攻撃すると天童藩を脅しました。
藩重役たちはこの脅しに折れて、同盟参加を正式に決定し、家老津田勘解由と長井広記を米沢に送って奥羽同盟諸藩に官軍参加を謝罪して助命を請うとともに、同盟への参加を通知しました。
その際、二人の家老は責任をすべて大八に擦り付けたのはもちろんのことです。
ただし、庄内藩が大八の身柄引き渡しを強く要請したのにはこたえず、かわりに大八の隠れ家に使者を使わして、大八に自決を要請したのです。
大八は断固これを拒否しましたが、この事態に決断して29日に同盟の会議が行われる山形に乗り込み、自ら名乗って捕縛されたのです。(以上『吉田大八』『物語藩史』『全大名家事典』『三百藩主人名事典』)
追い込まれて新政府軍から奥羽列藩同盟軍に寝返った天童藩、そしてついに捕まった吉田大八の運命やいかに。
次回は吉田大八と天童藩の過酷な運命をみてみましょう。
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