大八死す【維新の殿様・織田家出羽国天童藩(山形県) ⑫】

前回は、天童藩は新政府軍から奥羽列藩同盟軍に寝返り、吉田大八は自ら名乗り出て捕縛されてしまいました。

今回は吉田大八と天童藩の過酷な運命をみてみましょう。

大八死す

さて、捕縛された大八は、米沢・山形・仙台諸藩から厳しい取り調べを受けました。

この時の大八は真相を開陳し、信念を臆することなく堂々と述べたと伝えられています。

取り調べには天童藩から家老高沢茂左衛門らも立ち会っていたのですが、大八に罪をなすりつけるのみで助けるはずもありません。

そして大八の処遇を奥羽同盟諸藩で話し合った結果、天童藩にその処分を一任することになりました。

任せるといいつつ、天童藩に大八の死に追いやる責任を負わせるとともに、天童藩を試そうという魂胆でしょうか。

こうして大八は、わずか三か月前に先導役代理として華々しく行進した道を、今度は囚人となって送られることとなったのです。

6月17日、天童に到着すると、庄内藩らの意向を忖度した藩重役が、すぐさま切腹を申し付けたのは言うまでもありません。

そして翌6月18日、大八は観月庵で自刃して果てたのです。

享年37歳でした。

大八は天童仏向寺に葬られ、また素堂軒守隆祀として祀られました。(以上『吉田大八』『物語藩史』『地名大辞典』『全大名家事典』『三百藩主人名事典』)

天童観月庵(『東村山郡史 続編巻1』山形県東村山郡編・発行、1923 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【天童観月庵『東村山郡史 続編巻1』山形県東村山郡編・発行、1923 国立国会図書館デジタルコレクション】

戊辰戦争

5月3日に仙台で開かれた奥羽列藩同盟の会議には、天童藩は家老長井広記らを派遣して、庄内藩に協力して官軍と戦うこととなりました。(『物語藩史』「戊辰戦争における三百藩動向一覧」)

庄内藩兵は慶応4年(1868)7月28日に矢島を奇襲したのを手始めに、秋田県の南半分を戦場とする秋田戦争を引き起こしていますので、天童藩はこれを支援したものと思われます。(生駒家出羽国矢島藩編「矢島の戦い」「秋田戦争」参照)

秋田戦争において緒戦は庄内藩が優位となりましたが、戊辰戦争全体では官軍の優勢が明らかとなってくると、9月4日には米沢藩、9月10日には仙台藩、9月17日に山形藩が降伏するのを見届けたうえで、新政府への降伏を決めたのです。

こうして天童藩は9月18日白川口総督府に謝罪嘆願書を提出して降伏すると、今度は庄内藩征討の先陣を命じられて一隊を派遣しました。(『三百藩主人名事典』)

そして最後まで抵抗を続けていた庄内藩が9月26日に降伏すると、戊辰戦争は官軍の勝利のもとで終結したのです。

「会津鶴ヶ城」(『会津戊辰戦史』会津戊辰戦史編纂会1933 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「会津鶴ヶ城」『会津戊辰戦史』会津戊辰戦史編纂会1933 国立国会図書館デジタルコレクション】

戦後処理

こうして奥羽鎮撫使先導役を務めた天童藩が、いざ戊辰戦争が終わってみると、官軍に弓を引いた逆賊と、真逆の立場に立たされていたのです。

そして、12月7日に奥羽諸藩の処置が新政府から発表されましたが、天童藩は領地二千石を没収された上に藩主信敏に隠居が命ぜられたのです。(『物語藩史』『地名大辞典』『全大名家事典』『三百藩主人名事典』)

仙台藩が62万石から28万石へ減封、米沢藩が18万石から14万石に減封、庄内藩が17万石から12万石に減封、山形藩が5万石のまま移封、会津藩が23万石から3万石に減封のうえ移封といった処置と比べると、たしかに重いとは言えないかもしれません。

ただし、すでに破綻状態にあった天童藩にとって、天童焼討ちの被害や、戊辰戦争の戦費は、もはやお手上げ状態になったのは容易に想像できるでしょう。

織田信敏(Wikipediaより20210624ダウンロード)の画像。
【織田信敏(Wikipediaより)】

織田寿重丸(すえまる・1866~1871)

新政府によって藩主信敏に隠居が命じられたことから、急遽その弟の寿重丸が養嗣子となって明治元年12月18日に家督を継ぎました。

寿重丸は織田信学の子として慶応2年(1866)2月20日生まれています。

藩主であった兄信敏が新政府に隠居を命じられたことにより、明治元年(1868)12月18日にわずか3歳で家督を継ぎました。

この時の天童藩は、戊辰戦争の戦後処理で処罰を受けて二千石減らされて一万八千石となりました。

大八、神になる

そして明治元年12月、戊辰戦争の戦後処理が終わるやいなや、朝廷から吉田大八に神号の宣命が下されるとともに、天童藩に対して、吉田大八の祭祀を藩で行うように命じられたのです。

九条道孝(『帝国法曹大観』帝国法曹大観編纂会編(帝国法曹大観編纂会、1915)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【九条道孝『帝国法曹大観』帝国法曹大観編纂会編(帝国法曹大観編纂会、1915)国立国会図書館デジタルコレクション 】

じつは、戊辰政争が終結した直後の明治元年10月に、奥羽鎮撫軍総督九条道孝が天童を訪れて、大八を顕彰するとともに、感状と金一百両を大八の祭祀に下賜したのをはじめとして、明治政府による大八を顕彰する動きが活発化したのです。

あるいは、官軍の誤解により結果的に大八を追い詰めてしまったことや、大八のとった行動が実現していれば官軍がこれほど苦戦しなかった、といったような罪滅ぼし的な感情があったのかもしれません。

その後も、明治天皇や太政官からの下賜金があり、ついに明治4年(1871)に素道軒守隆祠が建立されたのです。

さらに明治14年(1881)の明治天皇東北巡幸にあたって、東村山郡役所にて大八の遺品が展覧の栄にあずかりました。

吉田大八像と遺物(『山形県名勝誌』山形県、明治41年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【吉田大八像と遺物『山形県名勝誌』山形県、明治41年 国立国会図書館デジタルコレクション 】

そして大八をまつった祠は、戊辰戦争をはじめ日清、日露、第二次世界大戦で戦死した方々を合祀して、現在は天童護国神社と名を改めて大切に守られています。(『東村山郡史』『山形県名勝誌』『吉田大八』)

こうして、戦前は山形県を代表する尊皇の士として大八の業績が盛んに喧伝されることになりました。

版籍奉還

話を天童藩に戻しまして。

藩主寿重丸は、戊辰戦争の余韻冷めやらぬ明治2年(1869)4月2日に藩籍を奉還すると、同年6月22日に天童藩知藩事に任ぜられました。

その後、同年7月19日に寿重丸が幼少のために藩知事を免ぜられて、兄で先代藩主の信敏が再勤して知藩事に任ぜられましたのです。

そして、寿重丸は改めて信敏の嫡子となりますが、明治4年(1871)5月9日に6歳で死去、天童織田家菩提寺の駒込高林寺に葬られました。

駒込高林寺の画像。
【駒込高林寺】

知藩事織田信敏

寿重丸が幼少のため、明治2年(1869)7月19日に特命を持って再勤を命じられて、信敏は知藩事に就任します。

先代の寿重丸が着手していたとみられる仮の陣屋と藩校の建設を継続していますが、その資金は庄内藩による天童襲撃の後に新政府から下賜された金子を使ってのことでしょうか。

そして信敏はなんとか藩校を小規模ではありますが、再開させたのです。

さらに、信敏は天童に藩祖織田信長をまつる小祠・織田社を創建、明治2年(1869)11月に神号を下されて、明治3年(1870)4月に天童舞鶴山に建勲神社を建立しました。

県社建勲神社(『郡制廃止記念名誉職員写真帖.東村山郡』郡廃止記念名誉職員写真帖刊行会、大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【県社建勲神社『郡制廃止記念名誉職員写真帖.東村山郡』郡廃止記念名誉職員写真帖刊行会、大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション】

その後、柏原藩の織田家当主・織田信親が中心になって京都・船岡山に建勲神社が建立されています。(織田家丹波国柏原藩編「偉大な祖先・信長を慕って」参照)

戦火を越えて復興を目指す天童の町と織田家天童藩、しかし時代はさらに変わっていくのです。

次回は、明治時代の織田家をみてみることにしましょう。

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