前回みたように、子供のための新聞を作ろうと東京朝日新聞社々員となった信恒ですが、はたしてその夢はかなえられるのでしょうか。
今回は、信恒のデビュー作「正チャンの冒険」を見てみましょう。
「正チャン」誕生
「(ヨーロッパ漫遊中に目にした)西洋の子供新聞や雑誌に触れ、大正12年(1922)に自ら子供のための新聞を発行せんと帰国、巌谷小波に相談を持ち掛けた。東京朝日新聞社に交渉に行くが、おりから創刊準備にかかっていた『日刊アサヒグラフ』に編集部員として迎えられ、同紙の「子供ページ」を担当」(『日本児童文学大事典』)することになったのです。(『日本人名大事典』『20世紀日本人名辞典』)
そして、子供ページの目玉として信恒が企画・原案したのが「正チャンの冒険」シリーズ、NHK朝の連続テレビ小説『おちょやん』では主人公・竹井千代の舞台初主演作として出てきましたので、覚えておられる方も多いのではないでしょうか。
主人公の正チャンのトレードマークである、先にボンボンのついた三角帽子は「正チャン帽」と呼ばれて大ヒット、現在までその名を遺しているのです。
「正チャンの冒険」とは?
この作品は、織田小星こと織田信恒が企画・原作し文章を担当、東風人こと樺島勝一が作画を担当して、『日刊アサヒグラフ』に大正12年(1923)1月25日から9月1日、『朝日新聞』朝刊大正12年(1923)10月20日から大正15年(1926)まで断続的に連載されました。
途中で掲載紙が変わったのは、大正12年(1823)9月1日には関東大震災で東京朝日新聞本社と工場が消失して、『日刊アサヒグラフ』臨時休刊に追い込まれたからです。
掲載後にはカラー単行本にまとめられて、『お伽正チャンの冒険』全7巻と続編『正チャンの其後』が朝日新聞社から大正13~14年(1824~25)に一冊50銭(『正チャンの其後』のみ1円)で、が発売されました。(『日本の漫画本300年』)
「正チャン」の評価
この作品はというと、「さまざまな国を舞台に活躍するこの冒険漫画は、ふきだしを使ったハイカラな絵柄に特色がある。また、ファンタスティックなストーリー展開も子どもの空想を刺激し、広く子どもたちに愛読された」(『日本児童文学大事典』)
また、単行本はこれまでなかった多色刷で絵本のような上品で美しい本でしたので、「子ども漫画のレベルが質・量ともに近代で最高のものに達した」(『日本の漫画本300年』)と高く評価されています。
さらには、「子ども漫画の発祥」(『日本人名大事典』『日本の漫画本300年』)とか、「日本におけるストーリー漫画の出発点の一つ」(『まんがの歴史』)、「フキ出しを使用した最初の漫画」(『日本人名大事典』『漫画家人名辞典』)と、日本まんが史上に残る名作とされているのです。
タンタンの海賊版?
じつは私が平成15年(2003)に小学館クリエイティブから復刻されたときに、書店に平積みにされているのをみて、「タンタンだ!」と思ったのが忘れられません。
確かに、絵柄だけでなく男の子とリスの組み合わせがエルジュのタンタンと似ていますが、「正チャン」のスタートが大正12年(1923)、いっぽうのタンタンが昭和4年(1929)ですから、「正チャン」のほうが少し古い(『まんがの歴史』)というからびっくりです。
ちなみに、令和3年(2021)現時点で、『正チャンの冒険』は川崎市民ミュージアムで、『正チャンの其後』は国立国会図書館デジタルコレクションで、それぞれ無料で公開されていますので、気になる方は一度読んでみてください。
ここからは、「正チャンの冒険」について、もうちょっと詳しく見てみましょう。
「正チャン」はおしゃれ
ここで改めて「正チャンの冒険」を見てみると、「多色刷のアール・ヌーボースタイルで絵本のような世界を創出し、詩情豊かな表現で子どもや多くの大人を魅了」(『日本の漫画本300年』)とあるように、おしゃれで美しいのに感心せずにはおれません。
前にも見たように、信恒が「正チャンの冒険」を企画、自ら原作と文章を担当したのですが、挿絵には樺島勝一を起用しています。(『日本人名大事典』)
樺島勝一
ここで改めて注目したいのが、作画担当の東風人こと樺島勝一(かばしま かついち・1888~1965)
樺島は、のちに『少年倶楽部』の克明で迫真なペン画で高い評価を受けて「ペン画の樺島」「船の樺島」と親しまれた人物です。(『日本人名大事典』)
信恒のセンスと樺島の画力が、おしゃれで美しい「正ちゃんの冒険」を生み出したといえるでしょう。
「正チャン」の隠れた一工夫
このように、東京・大阪朝日新聞に連載されて人気を博した「正チャンの冒険」ですが、その単行本化にも画期的な工夫がなされていました。
じつは、単に新聞連載を順にそのまま掲載しているのではなくて、掲載するエピソードとしないエピソードを選別し、収録に当たっては発表順ではなく配列し直すというもの。
もちろん、新聞掲載時には1色だった作品を全ページ4色刷りのカラー作品としていますし、さらには、単行本用に多くのエピソードを全面的に描き直すなど、新「聞・雑誌連載作品の単行本化に際して、作品の魅力を単行本という形に見合うよう、さらに高めるために考えうる工夫が、ほぼ全て施されている」(『マンガ学入門』)という隠れた工夫があって、作品がより読みやすく、わかりやすいものになっていました。
こうした努力が作品の質をさらに高めて、子供たちの圧倒的な人気につながったのでしょう。
「正チャン」ブームの到来
前に見たように、正チャンが被っていた帽子が「正チャン帽」として大流行し、社会現象となりました。
「つまり、大正から昭和にかけて一大メディアミックスが展開された作品なのです。そのため、海賊本や版権をとっていないグッズが数多く現れました。」(『まんがの歴史』)
「正チャンの冒険」は、新聞連載と単行本だけでなく、アニメや宝塚少女歌劇団の演目など、幅広いブームとなったのです。
この人気は「、正チャン」を連載していた『朝日新聞』主催の「正チャンリスの新年会」というイベントの様子からもうかがえます。
記事によると、「正チャン」帽をかぶった子供たちが劇を見て、実際に連れてきたシマリスにあい、いっしょに「正チャン大好きの歌」を合唱してお土産に最新刊などをもらって帰るとう内容でした。
そこに織田小星が「正チャンのお父さん」としてサプライズで登場して、九州への取材旅行の話を披露すると、子供たちのみならず、その子供をつれてきた大人たちも大喜びしたと伝えています。(『大阪朝日新聞』1925年1月7日付)。
「また、ラジオ放送がはじまった3月以降のラジオプログラムには「明日の正チャン」というものが入っていた。」(「1920年代視覚メディアの一断面」梁 仁實)という事実も、正チャンブームの証拠とみてよいでしょう。
このような社会現象まで引き起こした漫画って、「正チャン」がはじめてかもしれません。
後世への影響
この「正チャン」ブームが残したものとは何でしょうか?
専門家たちの意見を聞いてみましょう。
「正チャンの冒険」は、最初の毎日連載4コマ漫画となった。(『マンガ学入門』)
「これが子供漫画の発祥となった。このお伽噺的な絵物語は子供たちを魅了し、「正ちゃん帽」まで流行させた。また、フキ出しを採用した最初の漫画でもあった。」(『日本人名大事典』)
「子ども漫画のレベルが質・量ともに近代で最高のものに達したのである。」(『日本の漫画本300年』)
もちろん、「最初の毎日連載4コマ漫画」(『マンガ学入門』)として、新聞や雑誌に4コマ漫画が掲載されるきっかけを作ったことも見逃せません。
なかでも私が最も大きく、「遺産」と呼べそうに思うのが、「児童漫画というジャンルが(略)いまだ未成熟ながらも、一般に認知されだした」(『マンガ学入門』)という事実。
つまり、これまで風刺漫画など大人が読むものだった漫画を、子供たちが読むものになる道を開いたのが「正チャンの冒険」だったのです。
これをもって、「アンパンマン」や「かいけつゾロリ」、コロコロコミックの源流ということも可能でしょう。。
信恒のその後
「正チャン」大ヒットのあと、信恒はなにをしていたのでしょうか。
じつは、大正14年(1925)2月から15年(1926)8月にかけて、金の星社が発行する子供向け雑誌『金の星』で次々と児童文学作品を発表しました。
「オルゴールの歌」を手始めに、「矢村の彌助」(水島爾保布・画)までの7作品、歴史物語を中心にメルへンチックなものまで幅広い内容、信恒の引き出しの多さを感じずにはおれません。
そして、岡本歸一や寺内萬治郎、そしてもちろん樺島勝一といったそうそうたるメンバーと組んで仕事をしています。
掲載頻度や挿絵担当を見ても、編集側もかなり力を入れているようで、周囲の期待を集めて信恒が本格的に児童文学作家を目指していた時期があったとみてよいでしょう。
それ以後の作品として、昭和6年(1931)『東京朝日新聞』で「ネズミの日記」(シヨタロ画)を発表する(『日本児童文学大事典』)のみで、信恒は児童文学をやめてしまったのです。
大正末から昭和初めの信恒
信恒が児童文学作家を目指していた時期にも、彼の周りではいろいろなことが起こっています。
大正12年(1923)9月、三男信昭生まれました。(『人事興信録 第8版(昭和3年)』人事興信所編(人事興信所、1928))
また、『議院制度七十年』にある(名)安田保善社各嘱託も、保善社から安田保善社への改称が大正14年(1925)3月24日であることからみてこの時期でしょう。
いっぽうで、大正期、有馬頼寧・岡部長景が主催する信愛会に参加し、労働者のための夜学校・信愛中学校の設立にかかわるなど、社会運動に接したのもこの時期でした。
これまでの貴重な経験を踏まえて、信恒はいよいよ政治家を目指すことになるのです。
次回は政治家として激動の昭和のなかを苦闘する信恒の姿をみていくことにしましょう。
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