戦争は膠着状態に
前回みたように、碧蹄館の戦いで負傷した明軍提督李如松は戦意を喪失し、幸州山での損害もあって日本勢の戦闘継続も困難となって、戦争は膠着状態に入ります。
ここで和議が進められて竜山で停戦協定が結ばれて、ようやく文禄の役が終わりを迎えました。
文禄2年(1593)3月20日に漢城内外に駐留する兵数を調べると、5万3千余にまで激減しており、なかでも小西行長の第一軍は出征時のおよそ三分の一にあたる6,629人にまでおおきく激少していたのです。(『日本戦史』)
五島勢も平壌の戦いで青方新八、太田弾正らが戦死したのをはじめ、甚大な死傷者を出していました。(『海の国の記憶』)
晋州城攻防戦
このような状態になってもまだ戦争は終わらず、朝鮮半島南部の占領地を確保するために、文禄2年(1593)6月には晋州城攻撃(第二次)が始まり、ここにも小西行長と肥前諸将の軍へ参加が命じられています。
しかし損耗が激しいためか、輸送支援などの後方任務に当たったので、直接戦闘には参加しませんでした。
晋州城攻防戦のあと講和が成立し、ようやく朝鮮での戦争は休戦状態に入り、小西行長と肥前諸将の軍は熊川城に入りました。(以上『日本戦史』)
ところが、翌文禄3年(1594)7月28日には戦地で、五島純玄は疱瘡(天然痘)にかかり33歳の若さで死去してしまったのです。
遺骸は酒漬にして福江に運ばれ、菩提寺の大円寺に葬られました。(『国史大辞典』)
大浜玄雅の家督相続
あまりにも急すぎる当主の死は、一時は毒殺説も出て家中は騒然となりました。
ようやく戦争が終わっていよいよ帰郷というタイミングでの急逝でしたので、五島家が混乱に陥ったのは当然と言えるでしょう。
また、第10回「ルイスフロイス『日本史』の五島」でみたように、疱瘡(天然痘)は五島で極度に忌み嫌われていた病気であったことも見逃せません。
この緊急事態に、純玄の腹心だった弓奉行の平田雅貞(のちの貞方勝左衛門雅貞)と鉄砲奉行の青方善助(玄種)は、純玄の遺書を奉じて小西行長のもとを訪れます。
行長は、名護屋城からの裁可を待つよりは、遺書のとおり純玄の叔父である侍大将の大浜玄雅を後継とすることを主張します。
しかし、大浜玄雅は前に見たようにかつて相続争いで騒動を起こしていることを理由に固辞しました。
そこで行長は、亡くなった純玄の血族を玄雅の養嗣子とする提案をすると玄雅もこれをのんで、ようやく大浜玄雅が朝鮮・熊川浦の陣中で二十一代目を継承したのです。(以上『海の国の記憶』)
じつはこの行長の提案が、のちのち騒動の種となるのですが、それは第19話「大浜主水事件」でみることにしましょう。
朝鮮出兵のねらい
ところで、どうして五島純玄はわずか一万五千石の小藩としては過剰ともいえる兵力で参戦し、多大な犠牲を払って奮闘したのでしょうか。
じつは、ここには豊臣秀吉の影が見え隠れするのです。
秀吉は天正15年5月に九州統一が完了して九州国分けを行ったおりに、秀吉への降伏が遅れた肥前国諫早の西郷家を改易しました。
じつはこの西郷家は純玄の母の実家ともいわれる肥前の名門でしたが、その後、すきをついて反旗を翻した結果、取り潰しにあっています。
また、上松浦の名家・波多家も度重なる不祥事で秀吉の不興を買って取り潰されました。
西郷家と波多家への仕打ちをみると、領国を安堵されたといっても秀吉の不興を買ったら取り潰し似合う恐怖を純玄が持っていたとしても不思議ではありません。
だからこそ、領国と一族の名をアピールするために歴史のある宇久姓を五島に替え、朝鮮半島でも必死の働きを見せて、なんとか秀吉の歓心を買って家の安泰を目指したのではないでしょうか。
なんとか五島氏を残すことができたものの、その代償はあまりにも大きかったのです。
今回は、五島純玄の陣没と、戦地で五島玄雅が家督相続するところをみてきました。
次回は、慶長の役での五島軍をみていきましょう。
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