伊能忠敬来島【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㉞】

前回みたように、フェートン号事件を受けて、海防意識が高まり、五島藩にも海岸防備強化が命じられました。

その手はじめとして、海岸防備のもととなる正確な地図を新たに作成する必要がでてきたのです。

今回は、新たな日本地図を作るために来島した伊能忠敬についてみてみましょう。

伊能忠敬

伊能忠敬(1745~1818)は、初めて測量による日本地図を作製した測量家・地理学者です。

養家の家運を回復させたのち、50歳で隠居してから、自分の好きだった天文学・暦学と測量を高橋至時に学びました。

この忠敬が、幕府の許可を得て、寛政12年(1800)に江戸から東北や蝦夷地の測量を行って子午線を測定し、略地図を幕府に呈上しました。

これが幕府の期待に応える測量成績と地図作製でしたので、幕府内での評価が大いに高まって、幕府は日本地図作製を命じます。

このため、日本全国の測量を目指して18年間にわたって日本中をまわり、各種の日本地図を作製したのです。

そして、幕府の要請を受けて文化6年(1809)に作成した日本地図の補完を目指して測量を開始します。

五島の忠敬

忠敬が幕命により五島を訪れたのは文化10年(1810)、69歳の時でした。

じつは、ときの藩主五島盛繁は、海岸防備のためには、まずは正確に海岸線を把握する必要があると考えて、文化9年(1809)6月に目付藤原平吉を測量方用係に任命して海岸線の測量を行っていました。

ですので、幕府から伊能忠敬が派遣されると、藩船五社丸を提供して忠敬を全面的に支援したのです。(『日本地名大辞典』)

忠敬は、前年には九州各地を測量して肥前国賤津浦で越年し、残りの九州測量を行っている途中での来島でした。

壱岐と対馬を測量したのちに、対馬府中から宇久島に5月23日到着して測量を行ったあと、小値嘉島にわたって測量を実施します。

5月29日には測量隊を今泉、尾形、箱田などの隊員を副隊長坂部が率いる一隊と、忠敬率いる本隊の二手に分けて五島列島を南下、6月29日に福江島福江に到達しました。

伊能忠敬(『肖像 乙巻』野村文紹、国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【伊能忠敬『肖像 乙巻』野村文紹、国立国会図書館デジタルコレクション】

坂部、病に倒れる

これに先立つ6月24日ころ、別動隊を率いる坂部貞兵衛が日之島で病気にかかり、福江で療養に入りました。

おそらくチフスに罹ったのではないかといわれています。

7月3日に忠敬は再びに隊を二手に分けて、自身が率いる本隊は福江島を右旋回で、別動隊は坂部の病が治るまでは今泉又兵衛が隊を率いて、福江島を左旋回で測量することにして、測量を開始しました。

ところが、7月13日に坂部の病状が急変したため、両隊とも測量を中断して福江に戻り、坂部のもとに急行しましたが、すでに坂部は危篤だったのです。

看病の甲斐なく、二日後の7月15日に坂部は福江の客舎で死去してしまいました。

坂部貞兵衛の死

坂部は、文化2年(1805)から忠敬の測量に従ってきた人物で、謹直温和な性格であるうえに、その確かな手腕と豊富な経験から忠敬の信頼もきわめて厚く、副隊長として忠敬を支えてきました。

坂部のあまりにも突然の死に忠敬の悲嘆は大きく、あまりの落胆に声が出なかったといいます。

忠敬はこの時の気持ちを、「鳥が羽翼をもがれたようだ」と記したのです。

その後、隊員を福江に集めて、7月16日に福江町芳春山宗念寺に坂部を葬りました。

そして、一週間喪に服して弔意を表すとともに、この緊急事態に対する善後策を講じます。

忠敬はまず、このまま福江島の測量を再開したのちに、坂部に代わって永井に一隊を率いさせることにしました。

じつは、この年は6月に長男景敬が年48歳で没しているうえ、江戸の暦局・高橋屋敷が火事で書籍や書類が消失と、忠敬には不幸が相次いでいたのです。

それでも彼は日本全国の測量を止めることはありませんでした。

測量再開

7月22日に福江島の測量を開始して、7月29日に終了します。

7月晦日に福江を出発して九州本地に向かう途中で忠敬・永井の二隊に分かれて平島、大島などの島嶼を測量し、8月8日に彼杵半島に至り、そのまま南進して8月17日に長崎に到着しました。

忠敬は、そのまま九州から中国地方の測量を続けて、この年は姫路で越年しています。

「日本図 西日本」(伊能忠敬 原図・高橋景保 編〔写本・部分〕文政10年(1807)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「日本図 西日本」伊能忠敬 原図・高橋景保 編〔写本・部分〕文政10年(1807)国立国会図書館デジタルコレクション】

偉業達成

その後、忠敬は全国を測量中だった文政元年(1818)74歳で江戸にて死去。

忠敬は幕府の測量方になったとはいえ、測量にあたっては私財を投じておこなってきたのです。

そして忠敬の業は、門弟たちに引き継がれて、ついに文政4年(1821)『大日本沿海輿地全図』(通称「伊能図」)と『大日本沿海実測録』が完成しました。

忠敬の測量日数は3737日、測量距離はおよそ4万㎞、天体観測地点は1203に及んでいます。

忠敬の偉業にあって、その終盤で訪れた五島は、長男の死の知らせを受けただけでなく、最も信頼していた部下の坂部を失った場所として忘れることができなかったようです。

こうして海岸防備の基本となる地図が完成しました。

ところで、幕末の激動へと向かう中、五島藩は財政危機を乗り切るためにどのような手を打ったのでしょうか。

次回は、五島盛繁・盛成の二代にわたる藩政改革の行方をみてみましょう。

《今回は、『伊能忠敬』『伊能忠敬測量隊』に基づいて記事を作成しました。》

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