五島盛德上洛【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㊳】

前回みたように、坂本竜馬が来島したころは、五島藩は全島あげての防衛体制を作り上げました。

ここまでの体制を組むには莫大な資金が必要なのは言うまでもありません。

ですので藩主盛德は、海岸防備体制の保持と、この体制を維持する資金問題という二つの大きな問題に直面することになったのです。

この難題に、若き藩主盛德はどう立ち向かったのでしょうか。

藩札発行

前回みた島をあげての防衛体制は、海岸防備に不可欠とはいえ、破綻直前の藩財政がそれを許すはずもありません。

そこでまずは、安政3年(1856)に藩札3万両を発行するとともに、地元の商人たちに献銀を求めました。

すると、有川村江口惣平が一千両の冥加金を献じたのをはじめ、多くの特権商人らが献銀します。

もちろん商人たちはただ献納したわけではなくて、これと引き換えに全納郷士の地位を獲得したり、わずかに残っていた網代、つまり漁業権と引き換えるというものだったのです。

こうしてようやく藩は石田城の軍用金三千両を用意することができました。

しかし、このような最終手段ともいえる方法をとったことからわかるように、藩財政は限界を超えてしまったのは当然といえるでしょう。

大政奉還(Wikipediaより20210904ダウンロード)の画像。
【大政奉還(Wikipediaより) このとき、五島藩主五島盛德は領国で様子見していましたので、この歴史的場面には参加していません。】

盛德上洛

慶応4年(1868)4月23日に上洛の勅命を受けて、藩主盛德は銃隊を率いて京へ向かいました。

じつは、勅命が出されたのは前年の慶応3年(1867)10月でしたが、盛徳は病気を理由に上洛を遅らせていたのです。

これはおそらく、盛德は五島から情勢を眺めていたのでしょう。

その間に、薩長に討幕の密勅が下り、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ったうえに江戸城が無血開城されて、ほぼ体制が固まっていたのでした。

合藩騒動

そして盛德は、この状況をチャンスととらえるしたたかさを持ち合わせていました。

前に見たように、この時すでに藩財政が破綻を呈していましたので、盛德は今後の海岸警備と攘夷体制強化を行う費用として、富江領3,000石を合併してその費用に充てる要望書を弁事役所に提出したのです。

富江(『日本写真帖』田山宗尭(ともゑ商会、1912)国立国会図書館デジタルコレクション)
【明治時代末ころの富江『日本写真帖』田山宗尭(ともゑ商会、1912)国立国会図書館デジタルコレクション】

もちろん新政府も海防の重要性は痛感していましたので、五島藩の戊辰戦争出兵を免除しました。

これに加えて、五島藩による全五島支配を認め、富江には蔵米3,000石を与える沙汰書が示されたのです。

平たく言うと、盛徳は明治維新のどさくさに紛れて、積年の財政問題を一気に解決しようという魂胆だったといえるかもしれません。

富江領の猛反発

当然、この措置に富江領は激しく抵抗するとともに、嘆願運動を粘り強く繰り返しました。

流血の惨事にまで至る気配に、ついには事態解決のために長崎府の井上聞多、のちの井上馨を五島に派遣するなどして事態の収束に努めたのです。

最終的に、富江領主銑之丞は北海道後志国磯谷郡後志川、のちの寿都1,000石への移封となって、ようやく富江領も納得するところになります。

そして明治3年(1870)1月には富江領が福江藩と合併して、福江藩の全島支配が完成しました。

井上聞多(馨)(「近代日本人の肖像」国立国会図書館より)の画像。
【井上聞多(「近代日本人の肖像」国立国会図書館より)】

今回みたように、藩主盛德は明治維新の混乱を利用して、富江領を合併し藩の財政問題を解決するという離れ業を成し遂げました。

あるいは、このことが明治政府への「忠誠」を示す必要を生んでしまったのかもしれません。

次回は、五島でのキリシタン大弾圧「五島崩れ」をみてみましょう。

(今回の記事は、『物語藩史』『地名大辞典』『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』に依拠して作成しました。)

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