前回は信長勢を越前から追い出した一向一揆の様子を見てきました。
しかし、はやくも一向一揆勢は内部崩壊をおこしていたのです。
今回は、一向一揆勢に信長が容赦のない反撃を加える様子をみてみましょう。
信長の反撃
元亀元年(1570)の石山合戦以来、信長と対立していた本願寺は、顯如が本願寺に籠るとともに各地の一向一揆を決起させて攻勢を強めました。
天正2年(1574)に越前一揆が起こったのも、本願寺の指示が影響していたのです。
これに対して信長は、本願寺を包囲したうえで、各個撃破による武力鎮圧で臨みます。
7月になると、三度目となる長島攻めを敢行し、9月末頃に一向一揆を壊滅させていました。
信長軍の越前再侵攻
天正3年(1575)長篠の戦いで武田勝頼に大打撃を与えると、信長は7月から越前一揆に対して総攻撃を開始します。
前に見たように越前の一揆は内部分裂状態にありましたので、裏切りが相次ぎ、8月末までに越前一揆は壊滅しました。
大野郡でも、杉浦玄任が美濃から攻め入った信長配下の金森長近と原長頼を迎え撃ちますが敗退しています。
そして戦いが終わると、過酷な残党狩りが行われて、越前における一向宗勢力は越前から一掃されたのでした。
柴田勝家北ノ庄築城
越前一向一揆を滅ぼした織田信長は、天正3年(1575)9月に越前の国割を行います。
敦賀郡は従来通り武藤舜秀の支配を認め、府中(現在の越前市)辺の二郡を前田利家・佐々成正・不破光治の三人、いわゆる府中三人衆に与えました。
また、大野郡は三分の二を金森長近、残る三分の一を原政茂に与えています。
そして、残る越前の大部分を重臣で猛将として名高かった柴田勝家に与えたのでした。
さらに勝家には北庄へ築城して本拠とすることを命じて、軍事支配権を与えて北に対する備えとしたのです。
勝山城築城
このとき、勝山地方には、柴田勝家の一族であった柴田義宣が入りました。
ところが、北谷の七山家は尚も抵抗を見せて、鎮圧に向かった義宣が戦死する事態となってしまいます。
これを義宜の養子・柴田勝安(あるいは勝政とする説もあり)が鎮定したのです。
勝安は天正8年(1580)に袋田村の段丘上に築城し、村岡山の「かち山」の名をとって勝山城と名付けました。
これが勝山の名の起こりです。
勝安は畔川、現在の立川町の開発に力を入れて、夫役を免除したり環住政策をおこなったりして地域開発を行ったことから、現在も畔川道場では勝安の位牌を祀っています。
柴田勝家滅亡
天正10年(1582)天下統一を目前に控えた織田信長が、本能寺で明智光秀に襲撃されて自害する本能寺の変が勃発しました。
備中高松城で毛利勢と戦っていた羽柴秀吉が光秀を破ると、本能寺の変の事態収拾の主導権を秀吉が握るようになったのです。
こうなると、織田家随一の宿老を自認する柴田勝家と秀吉が対立するのは自然の流れといえるでしょう。
ついに秀吉と勝家は、天正11年(1583)4月21日に近江国の賤ケ岳で決戦、このときに柴田勝安は討ち死にしてしまいました。
そして敗れた勝家は北庄へ敗走し、4月24日に妻で信長の妹・お市の方とともに自害したのです。
こうして秀吉が信長の後継となったのはみなさんもご存じのとおりです。
今回、信長が一向一揆から越前国を奪還し、柴田勝家を置いて支配体制を築くところをみてみました。
そのなかで、勝家の一族、勝安によって勝山城が築かれたのです。
しかし信長死後の後継争いで、勝家は破れて越前も秀吉の支配に組み込まれることになりました。
そこで次回は、秀吉時代の越前の様子をみてみましょう。
コメントを残す