前回みたように、柳川藩藩主鑑通は、藩政改革を試みますが、十分な成果は上がっていませんでした。
それでも鑑通はあきらめません。
今回は、柳川藩の寛政改革についてみていきましょう。
改革の背景
田沼意次の時代にみられるように、商業主義はすっかり浸透して日本の経済構造は大きく変化、それが社会にも大きな変容をもたらしていました。
幕藩体制に揺らぎが見えはじめる中で、浅間山の大噴火と天明の大飢饉によって農村の疲弊は進み、一揆や打ちこわしが頻発して社会不安が増大したのです。
そこで幕府は、名君の誉れ高い白川藩主・松平定信を老中首座に登用して幕政の立て直しをはかり、寛政の改革を断行したのは御存じの方も多いのではないでしょうか。
柳川藩寛政の改革
柳川藩でも藩財政の危機的状況が続いていたうえに、天明の大飢饉による打撃が深刻となっていました。
そこで、寛政元年(1789)肥後国熊本藩から儒学者本田四明を招聘します。
四明は柳川藩の旧弊を糺し、改革の必要を説きましたので、藩内でもしだいに改革の機運が高まりました。
この機をとらえて、藩主鑑通は寛政4年(1792)立花寿賰(じゅしゅん)を家老に任命するとともに、立花通栄らを登用して藩政改革に着手したのです。
このときに登用された寿賰をはじめ、通栄、番頭戸次半、寺社奉行十時恰、池田十右衛門ら改革派を豪傑組とよびました。
寿賰は新たな産業を奨励するとともに条目を発布して豪奢を戒めて勤倹尚武を唱え、本田四明によって安東省庵以来の藩儒学の学風を改変しようとしています。
寛政7年(1795)3月、文武方を新設して武芸を奨励したのです。
ここでは、寿賰がおしすすめた新たな産業の代表、養蚕についてみてみましょう。
寿賰と養蚕
立花寿賰は、柳川藩2代目藩主忠茂の兄、宗繁を祖とする立花内膳家の六代目当主。
立花内膳家は、立花帯刀家とともに御両家とよばれる名家です。
七代藩主鑑通は、寿賰の賢明な人柄を見込んで娘の松子を嫁がせるとともに、三ノ丸西方に屋敷を構えさせたのです。
この寿賰が、藩の増収にむけて目を付けたのが養蚕製糸機業でした。
寿春は各地に桑樹の並木道をつくり、一気に桑栽培を広めたのです。
桑はその葉が蚕の飼料となるだけでなく、材は石目が美しいことから床柱や箪笥・鏡台・箱火鉢・三味線の胴などに利用されてきました。
貞享2年(1685)白糸輸入制限によって中国から絹糸の輸入が激減したのをきっかけに、高度な栽培方法が確立し、養蚕や製糸業が徐々に盛んとなっていたのです。
寿賰はこれに目を付けたわけですが、そう簡単には広まってはくれません。
そこで、妻の松子が自ら養蚕製糸機業振興の旗振り役をつとめたのです。
藩主の娘で家老の妻の声掛けとあっては家中が放っておくわけもなく、妻女の間で養蚕機業がはじまったのです。
豪傑崩れ
藩主鑑通は、在任51年の長きにわたりましたが、寛政9年(1797)閏7月に隠居して養嗣子の鑑寿に家督を譲ります。
そしてそのわずか5か月後の12月7日、69歳で没しました。
鑑通の跡を継いだ八代鑑寿(あきひさ・1769~1820)は、家老に旧習派の小野勘解由を登用します。
すると翌寛政10年(1798)閏7月、突如として勘解由によって寿賰と通栄は家老職を解かれ、大組頭中を戒諭し、十時恰・池田十右衛門は官禄を剥奪され蟄居、戸次半ら数十人に蟄居または逼塞が申し付けられたのです。
これが世にいう「柳川豪傑崩れ」で、ここに改革派は壊滅し、寛政の改革は頓挫したのです。
どうして豪傑崩れが起こったのでしょうか。
豪傑組崩れの背景
じつは、寿賰らの急進的改革派のとった厳罰主義と、「豪傑組」と呼ばれる党派的画策に、しだいに嫌疑と反抗が蓄積していたのです。
鑑寿が藩主に就任して、旧習派の小野勘解由が登用されたことをみても、すでに豪傑組への反発が現れていましたが、これが一気に表面化したといえるでしょう。
ちなみに、このとき処分を受けたものは、早いもので5か月後には処分が説かれ、大半が復職しています。
またもや藩政改革に失敗した柳川藩、もちん藩政の危機は終わってはいません。
八代鑑寿、九代鑑賢と、藩札発行や新田開発を行いましたが、藩政の危機解消には至っていません。
そこで次回は、この時期の行われた改革の中で、のちに大きな意味を持ってくる藩校伝習館の創立についてみてみましょう。
《柳川藩寛政の改革については、『福岡県の歴史』『三百藩藩士人名事典』『江戸時代全大名家事典』『稿本肥後先哲遺蹟』をもとに執筆しました。》
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