長州征伐【筑後国柳川藩立花家(福岡県)38】

前回は、柳川藩が安政の改革に成功して息を吹き返すところをみてきました。

そこで今回は、幕末の転機となった長州征伐での柳川藩の活躍をみてみましょう。

京都警固役

柳川藩主立花鑑寛は、文久3年(1863)6月に大坂警衛、さらに京都守衛を命ぜられ、自ら藩兵を率いて上洛し、御所の朔平門を守衛しました。

というのも、3月に十四代将軍徳川家茂が上洛してから政局の中心が京都に移るとともに、5月には長州藩が下関で外国船を砲撃、さらに7月には薩英戦争が勃発して緊張が高まっていたのです。

下関戦争で連合軍によって占拠された長府の前田砲台、フェリーチェ・ベアト(Wikipediaより20210228ダウンロード)の画像。
【下関戦争で連合軍によって占拠された長府の前田砲台、フェリーチェ・ベアト(Wikipediaより)】

8月に八月十八日の政変によって長州と攘夷派が都を追われると、一時的に情勢は小康状態となって、元治元年(1864)1月に朔平門守護を免ぜられました。

ところが、7月に長州軍が上京して禁門の変を起こすに至って、再び柳川藩は京都警衛を命じられました。

禁門の変で長州軍が朝廷をまもる薩摩・会津藩連合に大敗すると、朝廷と幕府は長州追討令を発して長州出兵を命じたのです。

第一次長州征伐

命を受けた柳川藩は、11月14日に陣場奉行立花伊賀、隊長十時無事老、立花備中、十時雪斎組将兵を筑前国植木へと出陣させます。

その一方で、その少し前に立花壱岐は雪斎を小倉駐留中の西郷隆盛のもとに派遣して、すみやかに内乱を止めるよう合議します。

西郷はこれに賛同すると、自ら長州に入って長州藩首脳と談合し、禁門の変の責任を取って益田・国司・福原の家老を自刃させて、その首級をただちに広島の本陣へと届けさせました。

長州討伐軍の総督をつとめる尾張藩主徳川慶勝は、長州藩主毛利親子に謝罪させたうえで蟄居謹慎させて、全軍に停戦と解兵を命じたのです。

尾張藩主徳川慶勝(『郷土勤皇事績展覧会図録』名古屋市立図書館 編(郷土勤王事績展覧会図録刊行会、1938)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【長州征伐で総督を務めた尾張藩主徳川慶勝『郷土勤皇事績展覧会図録』名古屋市立図書館 編(郷土勤王事績展覧会図録刊行会、1938)国立国会図書館デジタルコレクション 】

ここに第一次長州征伐は終了し、柳川藩も慶応元年(1865)1月2日に陣を払い帰藩の途に就きました。

第二次長州征伐

ところが、福岡藩攘夷派の助けを得て筑前に逃亡していた高杉晋作が長州に帰国すると、長州藩内の尊王攘夷派が息を吹き返して幕府への恭順に反対したのです。

こうして長州藩では、元治元年(1864)12月に高杉らが決起すると勢力を盛り返し、再び藩御実権を握ると、藩論を幕府への恭順から対決へと転じます。

そしてついに幕府と長州藩の交渉は決裂して、幕府は再び長州出兵を西国の三十藩に命じました。

こうしてはじまった第二次長州征伐では、薩摩藩が公然と出兵に反対したうえに諸藩も出兵に消極的でした。

それでも老中の唐津藩主小笠原長行を総督として九州諸藩の指揮を執るために小倉に入りさせます。

小笠原壱岐守長行(Wikipediaより20211212ダウンロード)の画像。
【小笠原壱岐守長行(Wikipediaより)】

柳川藩出兵

幕府の命により、柳川藩も家老小野隆基・矢島行敦の将兵と、参謀兼輜重隊長に中老十時惟恭の隊を出兵させて、慶応2年(1866)6月12日に小倉郊外の城野村に陣をはりました。

そして今回の出陣の大義名分が明らかではなかったため、小野・矢島両家老は小笠原長行と会見、さらに7月10日に十時兵馬惟恭が幕府軍監平山謙次郎と会見したのです。

そこで謙次郎は、長州藩の罪状二十八カ条を示しましたが、これに納得がいかない惟恭は反駁してこう申し入れます。

「幕府は旗本八万騎だけで戦え、幕閣小笠原長行を大坂本営に急派して事態の終結をはかれ」

これに謙次郎が激怒する様をみた惟恭は、その足で小倉郊外の赤坂に置かれた熊本藩陣営に行き、家老の長岡監物と溝口蔵人と会見しました。

協議の末、互いに行動を共にして長州藩と戦わないことを確認したのです。

こうして第二次長州征伐がはじまりました。

しかし大義なき戦いと見た柳川藩は、この戦には消極的だったのです。

そこで次回は、この戦のゆくえをみてみましょう。

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