前回は、平城が陥落し、浜通り地域での戦況は新政府軍が優位に立つまでをみてきました。
このとき、同時並行で進んでいた中通り地域での戦況はどうなっていたのでしょうか。
そこで今回は、白河口の状況をみてみましょう。
白河城
話は少し戻ります。
白河は古来より東北地方の玄関口として白河の関が置かれた要衝、にもかかわらず白河城(小峰城)は、幕末の混乱で城主不在という事態に陥っていました。
鳥羽伏見での勝利のあと、慶応4年(1868)3月には朝廷が徳川慶喜追討令を発するとともに、幕府領の没収を強行します。
白河城もこのとき朝廷の直轄地となりましたので、近隣の六藩に命じて守備させたのです。
会津軍の白河城奪取
さらに朝廷は3月19日に会津追討令を発すると、会津藩がいくら求めても新政府はいっこうに交渉に応じようとしません。
そこで会津藩は抗戦を決意し、閏4月20日に家老の西郷頼母が指揮して白河城を攻撃し占領したのです。
さらに奥羽列藩同盟が成立すると、同盟軍が次々と白河城に入り、3,000名ほどの兵が集結することになりました。
新政府軍も25日参謀・伊地知正治(薩摩)指揮の下、白河城奪還を試みるも失敗しています。
新政府軍、白河城奪回作戦
さらにはこれまでの薩摩・長州・大垣藩兵に加えて、鳥取・岡山・大村・佐土原と柳川の総数700名余が芦野に集結、同盟軍を正面にけん制しつつ、左右の両側から挟撃する作戦を立てました。
この作戦に参加した柳川藩兵は、藩主鑑寛が柳川から率いてきた主力軍ではなく、おそらく江戸詰の藩士で構成された部隊ではないかと私はみています。
作戦発動
そして、作戦は5月1日に発動されました。
まず、中央隊は激戦の末、小丸山高地を占領に成功、ここに陣地を築いて同盟軍の稲荷山陣地と対峙します。
さらに、右翼隊もほどなく重要拠点の雷神山を占領に成功したのです。
すぐさま同盟軍は雷神山の奪還をめざして襲い掛かりましたが、新政府軍の火砲の前に多大な犠牲を出して撤退せざるを得ませんでした。
いっぽう、左翼軍は立石山の堡塁を攻撃すると、同盟軍の守備兵は指揮官の日向茂太郎(会津)が戦死して総崩れとなって敗北、ここもまた新政府軍が占領します。
こうして雷神山と立石山を占領したことで、中央隊も勢い付いて同盟軍の防御の中心であった稲荷山陣地を攻撃、激闘のすえ占領に成功したのでした。
こうして白河城を囲む三方を新政府軍に占領されて危機に陥った同盟軍は、稲荷山奪還に兵を投入しました。
しかし同盟軍の攻撃はことごとく失敗して大きな損害を受けるばかり、ついにはあきらめざるを得なかったのです。
こうして周囲の防御陣地を失って孤立した白河城でしたが、周辺陣地でことごとく同盟軍の攻撃が失敗するのを見た新政府軍はついに白河城内に突入します。
こうして、東北地方の玄関口であった白河城は、ついに落城したのです。
同盟軍の反撃
その後、同盟軍は7月15日までに7次にわたって白河城を攻撃するものの、いずれも撃退されました。
6月16日には新政府軍が平潟に上陸していますし、7月13日には平城が落城してしまいました。
ここに同盟軍は白河城をあきらめざるを得なくなったのです。
棚倉城落城
白河城を確保した新政府軍は、次の目標を棚倉城に定めます。
そうした中、5月27日に土佐藩の援軍が到着すると、次々と白河に増援が到着していきました。
新政府軍は平潟に上陸して浜通りに新たに戦線を設ける計画でしたので、白河と平潟の中間に位置する棚倉の戦略的重要性が増していたのです。
もちろん、同盟軍もそのことに気づいており、仙台・相馬藩などを増援に派遣していました。
6月23日、新政府軍参謀・鷲尾隆聚が白河に到着すると、ただちに棚倉城攻めが決定されて、参謀補・板垣退助率いる新政府軍が棚倉に向かいます。
いっぽうの迎え撃つ同盟軍はというと。
新政府軍平潟上陸により、仙台・相馬両藩の兵は平潟方面に転進、会津藩は須賀川に、中村藩は浅川にそれぞれ転進して、気が付けば棚倉城には棚倉藩兵200名が残るのみに。
こうして24日に新政府軍が棚倉城を包囲すると、棚倉藩兵自ら城に火を放って逃亡し、あえなく棚倉城は新政府軍の手に落ちたのでした。
棚倉城を攻略した板垣支隊が平城攻撃に加わったこともあり、7月14日に平城があっさりと陥落したのは前にみたとおりです。
このあと、浜通りの軍勢に余裕ができたことから兵を海道軍と山道軍に二分することが決まります。
海道軍は浜街道を北に進んで相馬、仙台を目指し、山道軍は三春から二本松へ向かうのです。
山道軍は板垣支隊と合流して三春に進むことになりましたが、ここに柳川藩兵も編入されています。
こうして白河城と棚倉城という同盟軍の重要拠点を手中に入れた新政府軍は、さらに北をめざします。
そこで次回は、二本松城の攻防戦をみてみましょう。
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