前回みたように、新政府軍は、仙台藩と会津藩をつなぐ位置にある戦略上の重要拠点・二本松城を攻略して、ついに同盟軍の中心、仙台藩と朝敵会津藩に直接攻め込むまでに兵を進めました。
そんな中、追い詰められた仙台藩は、新政府軍のすきをついて「裏切りもの」とみなした下手渡藩を攻撃します。
そこで今回は、下手渡の戦いについてみてみましょう。
下手渡藩
下手渡(しもてど)藩は、立花宗茂の弟・高橋直次にはじまる立花家の分家です。
六代藩主種周は外様にもかかわらず若年寄りまで昇進しますが、寛政の改革を進める松平定信に反抗したことで、陸奥国下手渡に移封されていました。
その後、鑑寛の尽力で三池の旧領を一部回復したのは前にみたところです。
そして幕末の藩主種恭は老中格兼会計総裁をつとめた将軍家茂の側近でしたが、三池の藩領ともどもいちはやく新政府に恭順し、種恭は京都に入っていました。
さらに種恭は、同盟に近い立場にあるとみられる諸藩や旗本に新政府への恭順を説得していたのです。
ところがその一方で、藩庁のある下手渡は同盟軍の真っただ中でしたので、奥羽列藩同盟に参加していました。
こうして、下手渡藩は同盟に参加しているにもかかわらず藩主が新政府についたことを知った仙台藩が激怒し、「裏切もの」下手渡藩へと兵を差し向けたのです。
下手渡・川股の戦い
慶応4年(1868)8月14日に、岡山・大村・柳川の藩兵は、命を受けて福島に在陣した同盟軍を追い払います。
さらに、仙台・米沢藩兵が下手渡や川股あたりに出没して農商を乱暴するのを防ぐため、福島駐留を命じられました。
そこへ、8月16日に仙台藩兵300人ほどが下手渡陣屋に襲来したとの知らせが入ったのです。
仙台藩兵は領内の村々に放火、陣屋に侵入して放火、領内で略奪を行いました。
そこで、一報を受けた柳川藩兵が翌8月17日昼頃に下手渡へ進撃したところ、仙台藩兵はすでに撤退した後で姿がみえません。
すぐさま探索を行った結果、下手渡から30町ほど離れた月立(月舘)にまだ仙台兵200人余が残っていることが判明したので、すぐさま柳川藩兵がこれを攻撃に向かったのです。
仙台藩兵は防戦したもののほどなく敗走し、柳川藩兵はこのうち10余人を生け捕りました。
ここで日も暮れたので、この夜は下手渡に引き揚げて宿陣しています。
さらに、翌18日朝には仙台藩兵が終結して川股を襲撃したので、さっそく柳川藩が下手渡から反撃の兵を出しました。
ところがなんと、仙台藩兵は官軍が駐留していると聞いただけで、戦わずして逃げ出したのです。
この日のうちに二本松への帰還命令が来て柳川・大村両藩兵は二本松へ戻りました。(「9月23日 大村藩届書写」『太政官日誌 慶応4年戊辰秋9月 第93』、「9月23日下手渡藩届書写」『太政官日誌 慶応4年戊辰秋9月 第94』)
この戦いは、新政府軍と同盟軍の小競り合いの一つともいえますが、すでに仙台藩兵の士気がきわめて低いことがよくわかるでしょう。
こうして下手渡陣屋を襲撃した仙台藩兵でしたが、もはや二本松城を攻撃することはできそうもありません。
こうして白河口から進撃してきた新政府軍は、いよいよ会津藩を直接攻撃できる状況となったのです。
そこで次回は、会津での戦いをみてみましょう。
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