朝の清々しい空気の中、ラジオから流れる軽快なピアノ伴奏と元気のよい掛け声に合わせて体操をするという経験は、日本人の多くが子供の頃に慣れ親しんだ習慣です。
それでは、ラジオ体操はどうして国民的習慣になれたのでしょうか?
今回はその歴史から探っていきましょう。
現在のラジオ体操 夏休みの初め頃、鳥蔵柳浅地域でもおおむね町会単位で、町会運動部が主体となって神社や公園、道路上でラジオ体操が行われています。(一部では夏休み期間を通して実施する場所もあります。)
それでは、世界でも珍しい集団体操の習慣、ラジオ体操の歴史を振り返ってみましょう。
ラジオ体操は どのように誕生したのでしょうか?
ラジオ体操は昭和3年(1928)に昭和天皇御即位大典の記念事業として「国民保険体操」が考案・実施されたことに始まります。
大正14年(1925)に放送が始まったラジオ(昭和16年(1941)まではラヂオの表記)で放送されたことからラジオ体操と呼ばれることとなりました。
体操は逓信省簡易保険局と日本放送協会などが協力して文部省に委託して作られたのです。
当時、アメリカのメトロポリタン生命保険会社がラジオの音楽に乗って体操をするのを宣伝に利用していたのをヒントにした、とする説が有力です。
またその内容は、当時の最先端と言われたスウェーデン体操とデンマーク体操をミックスしたものでした。
放送開始時には、リズムに合わせて楽しくできる体操11種を順序付けて組み合わせたラジオ体操第一が、ピアノ伴奏〔丹生健夫〕と指導員〔江木理一(陸軍外山学校)〕の号令とともに放映されました。
逓信省が郵便局を通じてビラや指導書、楽譜、レコードなどを配布したり、実演映画の上映、指導員の講演・実演会の実施などといった強烈な宣伝活動を行ったため、急速に全国に広まることとなります。
それに加えて文部省も教科書への掲載、朝の学校での実施(昭和9年(1932)開始)などで普及を後押ししました。
しかしなぜ官民一体となってラジオ体操の普及が図られたのでしょうか?
その答えはラジオ体操が急速に広まった背景を探ると見えてきます。
ラジオ体操の会の役割とは?
昭和3年(1928)には万世橋署巡査 面高叶を指導員として町会の方々と佐久間小学校(現・佐久間公園)でラジオ体操の会が始められると(開始時の名称は「早起きラジオ体操会」)、集団的体操が瞬く間に全国に広がりました。
昭和5年(1930)に全国中継が開始されたラジオ体操の会の放送は、この神田からスタートしています。
はやくも昭和6年(1931)には東京で300を超える小学校で約3週間にわたって、ラジオ体操の会が実施されるまでになりました。
このころすでに、出席カードが配布され、参加スタンプをためると景品がもらえるという子供たちの心をつかむ仕組みができているのには驚きを隠せません。
さらには昭和6年(1931)には「ラジオ体操の歌」制定、昭和7年(1932)には青少年向けのラジオ体操第二が作られて放送を開始するなど、ものすごい力の入れようです。
こうして夏期に開かれるラジオ体操の会は、昭和13年(1938)には約1万7,000会場、参加者1億3,000万人と、わずか10年足らずで国民的体育行事にまで成長したのでした。
戦時下でもラジオ体操が行われた?
ラジオから流れる号令に合わせて、みんなが同じ動きをすることは、参加者の一体感を共有して身体レベルでの共同化・同一化が得られるという効果があることが、改めて国に注目されていきました。
日中戦争がはじまると(昭和12年(1937))ラジオ体操は「国民」的集団体操運動とされて、「非常時日本の象徴」とまで呼ばれるようになります。
それは、ラジオ体操が人々の心と体に、戦時体制を担う「国民」へと訓育する手段となったことを意味していたのです。
こうして内務省・文部省・在郷軍人会・青年団・愛国婦人会などの組織が積極的にかかわって、台湾・朝鮮・満州・南洋諸島などにまで広がっていくことになります。
さらにこの傾向は強まりを見せて、昭和14年(1939)に厚生省が「国民精神の作興」を目的に3種類の体操を考案したのです。
この中の一般向けの「大日本国民体操」をラジオ体操第三として放送されるようになりました。
このラジオ体操第三を「幻のラジオ体操」と呼んで取り上げる報道もありましたので、ご存じの方もおられるかもしれません。
また、全国各地にできたラジオ体操の会を統合して、「全国ラジオ体操の会」が結成されると、同時刻に全国一斉にラジオ体操が実施されるようになります。
また、「ラジオ体操の歌」が軍国主義色の強い変えられるなど、ラジオ体操が国民精神総動員の重要な活動になっていったのでした。
昭和20年(1945)には戦況悪化のために中継は困難となるものの、ラジオ体操の放送は敗戦前日まで朝昼夜の3回行われ続けた事実には注目すべきでしょう。
敗戦でラジオ体操は変わった?
昭和20年(1945)8月15日の敗戦で一時中断したものの、はやくも8月23日にはラジオ体操第三を除いてラジオ放送を再開、ラジオ体操第一・第二はピアノ伴奏を穏やかなものに代えて放送を継続したというから驚きです。
しかし、ラジオ体操が軍国主義に利用されたとしてGHQの指導によってラジオ体操は昭和21年(1946)4月13日に放送を終了させられてしまいました。
その翌日からは号令なしで管弦楽に合わせた「舞踊体操」三種が新しく放送されるものの戦後の混乱などによって全く普及が進まず、昭和22年(1947)8月31日をもって放送は打ち切りとなりました。(ラジオ体操終了と「舞踊体操」新設についてはGHQの指導によるとの説もあります。)
ラジオ体操はどうして復活?
戦後復興が進む中で、ラジオ体操の復活を望む声が高まって、郵政省簡易保険局を中心に新しい体操が考案されました。
戦持中の状況を踏まえて、簡易・簡単で、どこでもすぐにでき、調子がよく、気持ちが良い体操というコンセプトで作られた体操は、昭和26年(1951)5月6日に放送が開始されました。これが現在のラジオ体操第一です。
ちなみに、9月には新しいラジオ体操の歌が発表されましたが、歌詞が長いなどと不評、昭和31年(1951)からは現在のラジオ体操の歌が放送されています。
ラジオ体操の効能は?
出席カードとスタンプ、景品とうい仕組みも復活して子供たちが夏休みの朝に進んでラジオ体操会に参加、結果として子供たちに早起きの習慣が身について規則正しい生活を送れるという好循環が生まれます。
このことがラジオ体操の評価を高めてラジオ体操会が全国各地で実施されるようになり、その模様を実況中継する「夏期巡回ラジオ体操会」が昭和28年(1953)から始まることとなりました。
この好循環は社会全体に広がって、ラジオ体操は会社や工場でも実施されるようになっていったのです。
その結果、社会人を対象としたやや高度で疲労回復、能率増進を盛り込んだ体操が考案され、昭和27年(1952)6月16日からラジオ体操第二として放送されています。
こうしてラジオ体操は平和の時代に人々の健康増進という役目を得て、爆発的に広まって行きました。
ラジオ体操の未来は?
多様なライフサイクルが広まって行く中で、子供たちがラジオ体操に親しむ機会は次第に減る傾向にあります。
しかし、多くの熱烈な支持者に支えられて毎朝全国各地の公園などでラジオ体操が行われています。
平成2年(1990)には高齢者向けの体操として「みんなの体操」が制定されるなど、新たな広がりを見せています。
昭和初期の大衆運動の象徴、戦時下の国民精神総動員運動の象徴、戦後の平和な時代の象徴と、ラジオ体操は歴史的に様々な役割を果たしながら今も日本人の生活に深く根付き、日本人の元気の源とでもいえる存在にまでなっています。
ラジオ体操は日本が世界に誇れる文化的で健康的な習慣なのです。
この文章をまとめるにあたって以下の文献を参考にしました。
『日本放送協会史』日本放送協会編(日本放送協会、1939)、
『日本放送史』日本放送協会編(日本放送協会、1951)、
『大衆文化事典』石川弘義・有木賢ほか編(弘文堂、1991)、
『生活学事典』川添登・一番ヶ瀬康子 監修 日本生活学会編(TBSブリタニカ、1999)、
『日本文化事典』神崎宣武・白幡洋二郎・井上章一編(丸善出版、2015)
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