前回みたように、新宮水野家の家督を継いだ水野忠幹は、ほどなくして天誅組の変で出陣しました。
いよいよ戦乱は間近に迫っていたのです。
今回は、第一次長州征伐から第二次長州征伐前夜までをみてみましょう。
禁門の変
ペリー来航以来強まる対外危機のなかで、強硬に攘夷を主張する長州藩の台頭に危機感を持った公武合体派は、文久3年(1863)8月18日に長州藩を御所警固から外して京から追い出します。(八月十八日政変)
これに対して、長州藩は京における政治勢力の回復を目指して、京にむけて大軍を送り込みました。
そしてついに元治元年(1864)8月18日に長州藩兵は京への侵攻を開始するものの、薩摩・会津藩をはじめとする守備諸藩軍により撃退されたのです。
これが名高き「禁門の変」、「蛤御門の変」の名称で習った方もおられるかもしれません。
この敗北の結果を受けて、長州藩の逸材・久坂玄瑞が自刃したことをご存じの方も多いのではないでしょうか。
第一次長州征伐
禁門の変で御所にむけて発砲した長州軍は朝敵となり、朝廷は7月23日に長州藩追討の命を下します。
そこで幕府は、長州国境に約15万の兵を動員して防長二国を包囲する体制が整えたのです。
これに恐れをなした長州藩は、藩主親子が降伏、謝罪したうえ、禁門の変で兵を率いた国司信濃たち三家老に切腹を命じ、その首級を差し出して恭順しました。
こうして元治元年(1865)12月27日に総督の前尾張藩主徳川慶勝は、追討軍の撤兵を命令、一兵も損ずることなく長州藩を屈服させたことで、第一次長州征伐は幕府勝利のうちに終わったのです。
このときは紀州藩に同年の8月18日に旗本後備えと地理の事前調査をする少人数の派兵を命じられて、11月になって長州へ向かいました。
第二次長州征伐への道
ところが、長州藩内では元治の内戦を経て抗幕体制が成立すると、これに合わせて慶応元年(1865)5月には軍制改革と政治改革が断行されます。
いっぽうの幕府では、長州の状況をみて、慶応元年(1865)4月1日に長州再征の方針を打ち出しました。
さらに、第一次長州征伐後に長州への処分を通達するものの、長州藩が処分令の受理を拒否したこともあって、再度の長州を主張する主戦派が台頭したのです。
紀州軍出陣
5月13日に紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)は、朝廷や薩摩・越前ら雄藩の反対を押し切って幕府軍の御手先総督を引きうけます。
翌閏5月9日に江戸から帰国した茂承は出陣の準備にかかりました。
そして、17日には田辺領主で付家老の安藤直裕が先備え、18日には茂承が本備え、19日には水野忠幹を後備えとする総勢1万1,000人を超える大軍団で和歌山を出発したのです。
大坂滞陣
じつは紀州軍は、運搬要員として人夫(和歌山藩は在夫と呼称)や大工諸職人といった非戦闘員を4,200人余り含む物でした。
紀州藩は出陣にあたって武器・武具や食料などの膨大な物資を運搬するために荷車や船を準備していました。
とはいえ、一人六貫目、約22.5kgの荷物を背負える人夫が大量に必要だったのです。
そこで藩は、領国全土に6,000人もの徴発を命じ、半ば強制的に人夫を集めたのです。
ところが、実際に戦闘が始まったのは慶応2年(1866)6月でしたので、出陣して1年余りもの間、大坂に滞陣することになったのです。
こうした中、軍紀は乱れ、脚気などの病人もが続出、さらには紀州へ引き上げるものも少なくなかったのです。
人夫不足に加えて、莫大な滞陣費も問題となります。
動員したものには、上下を問わず一日当たり白米7合5勺のほか味噌・醤油・梅干といった副食も必要でした。
さらには馬192匹分の飼料も必要なわけですから、戦う前にすでに膨大な額が費やされていたのです。
そしてもちろん、戦争が長引けば長引くほど費用は増大し、その分、藩士や領民の負担も深刻となっていきました。
こうしていよいよ第二次長州征伐の戦いは幕を開けることになるのです。
そこで次回は、第二次長州征伐で最大の激戦となった芸州口の戦いのはじまりをみてみましょう。
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