前回みたように、水野忠幹率いる軍に、第二次長州征伐ではじめて長州軍が敗退に追い込まれたことで、長州軍では楽勝ムードが吹き飛ぶほどの衝撃を受けました。
そこで今回は、挽回に燃える長州軍の猛攻と、その後の思わぬ事態の変化をみてみましょう。
6月25日大野村再戦
6月19日の敗北を受けて、挽回に燃える長州軍は、再び大野村攻撃を計画します。
今度は兵を4手に分けて配置する作戦をとりました。
その内容は、、搦手の松ヶ原からは中央を衝撃隊、その左の山上には第四大隊の二・四番の計二個中隊、右の山上には遊撃隊の本陣三・五・六・七銃隊と維新団三・四番隊の計六個小隊と遊撃隊臼砲三門というものです。
さらに、大手となる西国街道からは岩国兵200人、遊撃隊第一・二・四銃隊と維新団一・二番小隊の計六個小隊、大砲4門が担当しました。
こうして6月25日午前零時、大野村攻撃に搦手の松ヶ原口の軍が出陣、つづいて午前2時に大手の西国街道軍が出撃します。
激戦
いっぽう、水野軍は襲撃してきた長州軍を、築いた要害に拠って迎え撃ちました。
ここでも両軍譲らず激しい銃撃戦となったのです。
長州軍は制高を重視した散兵作戦をとり、山上から激しい銃撃を加える得意の戦法で攻めかかります。
いっぽうの水野軍は、要害を盾として反撃を加え、一歩も引きません。
長州軍のこれまでの戦いでは、鉄砲一挺につき50~60発くらい撃っていたものが、この戦いでは120~30発と倍する数となったのです。
このため、銃が発射熱で火のように熱くなり、握ることができないうえ、装填しようとする弾丸が下がらずに幾度も筒の掃除をしなければならなかったといいます。
長州軍撤退
こうして激戦が繰り広げられて戦線が膠着する中、ついに午後2時に長州軍は撤兵を決断します。
ところが、玖波村までの帰陣中に大砲を積んだ幕府軍商船一艘が現れて、引き揚げ中の長州軍めがけて艦砲射撃を行ったのです。
この日の戦闘で、長州軍は戦死者7名、負傷者20名を出し、またもや水野軍に敗北を喫したのです。
本庄宗秀の止戦秘密交渉
征いっぽうで長軍が各地で敗戦する中、征長先鋒副総督の任にあった老中・宮津藩主本荘宗秀は状況を打開すべく、停戦(止戦)を画策していました。
そこで、広島で拘禁していた長州藩主名代宍戸備後助、小田村素太郎を長州藩に返して交渉の手掛かりにしようとしたのです。
そして独断で慶応2年(1866)6月27日に宍戸と小田村を岩国藩まで護送したのち、長州藩へ帰らせてしまいます。
これを知った征長先鋒総督の紀州藩主徳川茂承は激怒し、7月4日には辞表を提出するため家臣を大坂に向けて出発させました。
さらに、茂承は本荘に辞表を提出したことを告げるとともに、7月4日以降は茂承にかわって本荘が指揮を執るよう通達したのです。
忠幹、広島へ撤兵
藩主茂承が辞表を提出し、指揮権を宗茂に渡したことは、すぐさま前線に影響を与えました。
7月6日には水野忠幹率いる軍が大野村から撤退し、かわりに安芸国広島藩軍が前線の守備に向かいます。
こうして忠幹の軍は翌7日には広島城下に戻りました。
当初出兵を拒んでいた広島藩が前線へ兵を送ったのは、じつは長州軍との不戦密約が成立していたというから驚きです。
こうして前線では、戦闘が停止し、平穏な状況が訪れました。
茂承、征長先鋒総督復帰
ところが、長州藩は本荘の申し出を拒絶、さらに大坂の幕閣も驚愕してなにより茂承の慰留を第一の急務としたのです。
そこで幕府は本荘を罷免して老中で沼津藩主の水野忠誠を征長先鋒副総督に任命するとともに、全力で茂承を慰留にあたります。
いっぽう、長州軍の指揮をとる藩庁政事堂は、このスキを見逃すはずもありません。
7月10日には三田尻に駐屯していた御楯隊・徒士一中隊・南第七大隊(通称良城隊)半大隊に芸州口への出陣を命じて、疲弊している第一大隊の二・四番中隊と、第二大隊の二番中隊、第三大隊と交代させました。
長州軍は、抜かりなく前線の兵をリフレッシュさせて次の作戦に備えたのです。
こうして訪れた戦場の平穏も、わずかな期間で終わりを告げることになりました。
次回は、征長軍先鋒総督徳川茂承の命を受け、再び進撃する忠幹をみてみましょう。
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