前回みたように、明治35年(1902)1月27日午前11時ころ、後藤伍長を発見したことで、演習軍の遭難がはじめて青森歩兵五聯隊へともたらされました。
そこで今回は、事件が判明した後の救援活動をみてみましょう。
捜索隊
演習部隊が帰隊予定の明治35年(1902)1月24日になっても戻らない中で、聯隊本部に動きはありませんでした。
そうしたなか、ついに25日に青森警察署から演習部隊が遭難したらしいとして、五聯隊に対処するよう働きかけがあります。
外部からの指摘とあって、五聯隊も無視したり秘匿したりすることができなかったのです。
ここでようやく五聯隊は重すぎる腰を挙げざるを得なくなりました。
そこで吹雪から天候が回復した25日に、ようやく幸畑まで迎えを出しますが、訓練部隊は戻ってきません。
26日に田茂木野で道案内を雇い、救援隊は小峠付近まで進みますが、行軍の痕跡を見つけたのみで天候悪化により田茂木野へと戻っています。
そして27日6時に救援隊は田茂木野を出発、ようやく午前11時に雪中で直立する後藤伍長を発見したのです。
遺体捜索隊の派遣
ところが、後藤伍長が全員死亡と生存者の情報を誤って伝えたために、演習部隊は全滅したと判断されてしまいます。
すでに全員死亡しているのですから、救援隊ではなく遺体捜索隊が、じっくりと二日かけて編成されたのです。
さらに後藤伍長発見で演習部隊の遭難が判明すると、報告を受けた大本営がこれを発表、1月29日に東奧日報がこれを伝えると、1月30日以降は新聞各紙の報道合戦がはじまりました。
ようやく本格的な捜索が開始されたのは30日で、それ以降合わせて16名が救出されたのです。
生存者の発見
いっぽう、駒込川の大滝で身動きが取れなくなっていた倉石大尉たちも、31日になって動き出しました。
天候が回復して吹雪がやんだため、倉石大尉、伊藤中尉、小原伍長、後藤二等卒の四人は、意を決して駒込川から急斜面を登って救助を求め、ようやく捜索隊に遭遇、救出されたのです。
こうして1月30日から本格的に始まった捜索活動で、31日に山口少佐以下9名の生存者と、水野中尉以下34名の死者を発見します。
2月2日に生存者5名を救出、以後の生存者はありません。
遺体の捜索
また、2月1日には水野中尉はじめ中野中尉と鈴木少尉の三名の将校の遺体を屯営に搬送しています。
捜索はその後も続き、5月28日には最後の行方不明隊員が遺体で発見されて、ようやく終了しました。
演習参加者210名のうち、死者は199名、救出されたものの間もなく死亡した6名。
生存者たちの多くは、重い凍傷の後遺症に悩まされながら、長く療養生活を強いられたのです。
事件処理
6月9日、中将・立見尚文師団長が天皇、皇后に拝謁して事故を報告します。
この大事件に対して処罰が下されたのは、津川聯隊長のみで、軽謹慎処分7日間という非常に軽いものでした。
そして処分は、「速やかに救出の処置を為すべきに緩慢時機を失し」たことに対してのもの。
事件そのものについては誰も責任を問われなかったのです。
その背景には、ロシアとの戦いが目前に迫る中、事件をなるべく穏便に処理したいという陸軍上層部の強い意向があったといいます。
世界山岳史上に残る最悪の犠牲者を出した八甲田山雪中行軍遭難事件ですが、陸軍の政治的な思惑で、責任はうやむやにされていきました。
その結果、事件の原因究明や研究も、また遅れることになったのです。
そこで次回は、あらためて八甲田山雪中行軍遭難事件の原因についてみてみましょう。
「25日に青森警察署から演習部隊が遭難したらしい」との連絡があった事、「本格的な捜索が開始されたのは30日」と云うのは初耳でした。
文中に「(それまで)聯隊本部に動きはありませんでした」とありますが、手元の史料には「津川連隊長は24日から救援隊を派遣していた」旨の記述があります。
どっちが本当なんでしょうね?