前回までみてきたように、大逆事件で熊野と新宮の人々は、心に深い傷を受けました。
そのいっぽうで、熊野では江戸時代以来の基幹産業である熊野材と、備長炭で名高い炭に加えて、新たな産業が興ってかつてないほどの繁栄を謳歌します。
そこで今回は、好景気の到来から停滞までの道筋をたどってみましょう。
熊野の繁栄
江戸時代から熊野材や十津川材の集積地として全国に名をはせた新宮は、明治時代以降もその名声を維持していました。
とくに、用材と薪炭の伐採は、明治末から大正時代にその頂点を迎えます。
新宮に集まる年間の木材量でみてみると、明治15年ころは約20万石前後、明治40年には66万石、明治末には100万石に達したのです。
これらは1万7,000坪の水面貯木場に集められ、原木のまま取引されたり、加工されて販売されたりしました。
貯木場周辺には製材工場や製紙工場が進出し、下熊野一帯は木材関連のコンビナートといった広がりを見せるまでになったのです。
木炭の好調
また、第一次世界大戦後の不況で生産が低迷した木炭も、昭和に入ると次第に生産量を増加させて、昭和15年(1940)には昭和初年の2倍以上の生産高を誇るまでになります。
これは、日中戦争の勃発により、石炭やガソリンの代替燃料としての注目されたことが大きな要因となっていたのです。
また、おもに西牟婁郡で生産された備長炭に代表される白炭は、良質の特産品として県外に盛んに移出され続けました。
また、明治政府が早くから奨励した養蚕・製糸業は、明治時代の末には牟婁郡でも盛んとなり、養蚕農家が全農家戸数の2割近くまで占めるまでになったのです。
金融恐慌
繁栄を謳歌していた熊野でしたが、思わぬところから変調が現れます。
昭和2年(1927)3月14日、衆議院予算委員会における大蔵大臣・片岡直温の失言がすべてのきっかけでした。
ここまで政府は、第一次世界大戦における異常な経済膨張に加えて、戦後恐慌と関東大震災の打撃を救済インフレ策で無理やり抑えてきました。
この矛盾が、片岡失言の背景となる震災手形の処理問題をきっかけに爆発したのです。
こうして発生した金融恐慌は、全国で銀行を休業に追い込んだのみならず、台湾銀行・第十五銀行・近江銀行などの大銀行までもが破綻する事態に至ります。
鈴木商店をはじめとする企業の倒産も相次ぎ、日本経済のみならず社会全体に深刻な影響を残したのです。
金融恐慌は、大正時代後半から進められてきた銀行の合同制作のなかで、新宮・熊野地方の新設合同銀行である南海銀行を直撃します。
このために、南海銀行は大同銀行に救済合併されましたが、和歌山県内各地で銀行の破綻が相次いだのです。
世界恐慌と養蚕
金融恐慌がようやく収まったばかりの昭和4年(1929)10月24日、今度はアメリカ・二ューヨークのウォール街での株価大暴落により世界大恐慌がはじまります。
これにより、日本の生糸輸出は激減し、繭価格も暴落して農村経済を直撃しました。
養蚕農家は繭価格の暴落に見舞われたうえに、人絹工業の発展による打撃が加わって、収入が一気に三分の一にまで激減する有様だったのです。
和歌山県は奨励金を出して桑畑を陸稲への転換や野菜の混作を進めざるを得なかったのです。
木材不況
相次ぐ恐慌は、熊野地方の基幹産業である林業にも深刻な影響を及ぼします。
恐慌が起こる前から木材不況に見舞われていたため、山林地主が木材の伐採を手控えていたところでしたので、木材の出荷がおぼつかなくなったのです。
戦争への道
こうして恐慌から立ち直ることができなくなった日本は、活路を戦争に求めます。
昭和12年(1937)7月7日には盧溝橋事件を契機に日中戦争に発展、さらに昭和16年(1941)12月8日にはハワイ真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発しました。
戦争が激しくなるにつれて戦時統制が強まり、自由な経済活動が行えなくなります。
さらに太平洋戦争末期には、新宮や勝浦で米軍艦船による激しい艦砲射撃が行われて、多くの犠牲者を出すに至りました。
ここまでみたように、熊野はかつてないほどの繁栄を謳歌するものの、相次いで恐慌が到来すると、今度は目を覆うばかりの衰退に至るまでになりました。
そこで次回は、低迷を続ける熊野と新宮に復興への光がさした熊野古道の世界遺産登録までをみてみましょう。
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