岩波茂雄が亡くなった日
4月25日は、昭和21年(1946)に岩波書店の創業者・岩波茂雄が亡くなった日です。
岩波茂雄は、明治14年(1881)に長野県諏訪郡中洲村、現在の長野県諏訪市で農家の長男として生まれました。
茂雄が地元の諏訪実科中学2年のはじめに父を失い、中農の家に残された母を助けてみずから農業にはげみます。
杉浦重剛を慕って上京し、日本中学を経て明治34年旧制第一高等学校に入学、安倍能成、阿部次郎、上野直昭らと親交を深めました。
挫折
しかし、華厳滝に投身自殺した一高生・藤村操の「巖頭之感」に共感して人生問題に悩み、学業を放棄した結果、二度落第を続けて除名処分となります。
その後、母の努力により学業に立ち戻り、東京帝国大学哲学科選科に入学し、明治41年(1903)に卒業しました。
卒業の翌年から神田高等女学校に勤め教頭にまでなったものの、「人の子を賊ふ」に耐えずとして教育業界を去ります。
岩波書店開業
市民としての自立を目指して大正2年(1913)東京・神田南神保町に古書店「岩波書店」を開業しました。
ここでまず正札販売を厳守して注目されます。
嘘や駆け引きを嫌う茂雄は、当時の業界では非常識ともいえるこの商法を、信念をもって貫き通したのです。
翌大正3年(1914)友人安倍能成を介して知遇を得ていた夏目漱石『こゝろ』を、岩波書店の最初の出版物として発行しました。
「哲学の岩波」
ついで大正4年(1915)~6年(1917)には西田幾多郎、阿部次郎、安倍能成、和辻哲郎ら先輩知人の協力によって『哲学叢書』12巻を刊行します。
以後も盛んに哲学書類を刊行して大正初頭の哲学書流行のきっかけを作りました。
さらにその翌年の大正6年(1917)に漱石が逝去すると、その年末から『漱石全集』全14巻の刊行を開始します。
この二つの企画は、折からの大正教養主義の波に乗って予想外の売れ行きを示し、以後の出版活動の基礎を固めるとともに、岩波書店の基調を形成しました。
いよいよ本格的な出版活動を開始し、数多くの学術書、専門書、教養向きの書籍を発行していきます。
岩波文庫創刊
さらに昭和2年(1927)には、三木清らの協力を得て、「知識と美」の解放を求める「進取的なる民衆の切実な要求」(「岩波文庫発刊の辞」)岩波文庫を創刊しました。
これはドイツのレクラム文庫に倣い、古典の廉価普及を目的とするもので、第1回の配本は正岡子規『仰臥漫録』、夏目漱石『こゝろ』など22冊でした。
岩波文庫は古今東西の名著をそろえていくと社会の歓迎を受けて、戦後の文庫本ブームの原型となっています。
「岩波文化」
その後も、岩波全書(1933年)、岩波新書(1938年)、など多様な形で各種の書籍や雑誌を発行していきます。
その出版活動は、広く大衆層に支持された「講談社文化」と対比され、「岩波文化」と呼ばれるに至っています。
このように岩波茂雄は、その独特の教養主義・文化主義的な信念に基づく出版活動を展開し、広い分野にわたる書籍・雑誌を刊行して学問と文化の普及に貢献しました
津田左右吉事件
道徳と商売の一致を信じた茂雄ですが、その自由主義的行動から、しばしば軍部から警戒されることになります。
そうした中で起こったのが、昭和15年(1940)津田左右吉事件でした。
事件は、2月に津田左右吉の『神代史の研究』『古事記及日本書紀の研究』などの著作が発禁処分を受けたうえ、3月には津田と発行人の茂雄が出版法第26条(皇室の尊厳冒涜)の疑いで起訴されたのです。
昭和17年(1942)5月、東京慶事地方裁判所第一審は津田に禁錮3か月、茂雄に禁錮2か月、ともに執行猶予2年が宣告されました。
津田と茂雄は控訴しましたが、昭和19年(1944年)11月に控訴中時効により免訴とされたのです。
戦後
昭和20年(1945)に貴族院議員となり、昭和21年(1946)出版人として最初の文化勲章を受けた後、66歳で没しました。
岩波茂雄が創立した岩波書店は、IT時代の中で出版文化の危機が叫ばれる中にあっても、開かれた市民社会と文化を支える取り組みを続けています。
(今回の文章は、『日本近代文学大事典』『朝日人物事典』『日本人名事典』『国史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(4月24日)
明日(4月26日)
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