作家の壺井栄が亡くなった日
6月23日は、昭和42年(1967)に作家の壺井栄が亡くなった日です。
そこで、栄の激動の人生を振り返りながら、現代へのメッセージを探ってみましょう。
女性作家たちとの出会い
壺井栄(つぼい さかえ)は、明治33年(1900)8月5日、香川県小豆郡坂手村、現在の小豆島内海町坂手で樽職の親方を務める父・岩井藤吉と母・アサの五女として生まれました。
明治38年(1905)に坂手尋常小学校に入学、この頃から不況の影響で家運が傾いてしまいます。
栄は教師を強く志望して内海高等小学校へ進み、苦学の末に大正2年(1913)卒業しましたが、教職にはつけず、家業の手伝いや郵便局員、村役場に務めていたのです。
そんな時、大正14年(1925)に同郷の壺井繁治から手紙で誘われて上京し、そのまま結婚します。
二人の住んだ世田谷町太子堂周辺には、二軒長屋の隣に林芙美子、そして近所に平林たい子が住んでおり、ここから交友がはじまりました。
当時の夫・繁治はアナキスト詩人だったので、弾圧もあって生活は厳しく、栄の筆耕で生計を立てていたといいます。
さらに繁治は昭和2年(1927)12月に黒色青年同盟一派に襲われて左手を負傷すると、翌昭和3年(1928)に三好十郎ら左翼芸術連盟を結成したのです。
事務所が置かれた幡ヶ谷の自宅には、当時の東大生の高見順や新田潤らが出入りしていたといいます。
そして、昭和4年(1929)3月には、栄が浅草橋の時計部品卸商に就職して生活を支えました。
いっぽうの繁治は、中野重治たちと全国無産者芸術連盟(通称ナップ)の中で、機関誌『戦旗』の経営・発行責任者となり、検挙されてしまいます。
その後も繁治は二度にわたって検挙されると、栄は獄中の繁治のために献身的に働いたのです。
また、この頃から佐多稻子や宮本百合子との交流が始まっています。
デビュー
昭和10年(1935)10月『婦人文芸』(神近市子編集)に短編『月給日』を発表、これが最初の作品となりました。
翌昭和11年(1936)には佐多稲子にすすめられて『大根の葉』が書かれ、宮本百合子の手によって昭和13年(1938)9月『文芸』(改造社版)に発表されています。
さらにこの後書かれた『暦』が昭和15年2月『新潮』に発表されると、昭和16年(1941)には創作集『暦』(昭和15年3月)によって第4回新潮社文芸賞を受けました。
昭和19年(1944)には東京空襲に中で、童話『海のたましい』(のち『柿の木のある家』と改題。)
『二十四の瞳』
戦争が終わった昭和20年(1945)12月、新日本文学会創立とともに会員となりました。
昭和21年(1946)に妹のシンと徳永直が結婚するものの、2か月後のシンが家を出てしまいます。
すると栄は、このときのことを基にして『妻の座』を執筆し、『新日本文学』に発表(昭和22年8月~24年7月)しました。
また、昭和27年(1952)『二十四の瞳』を『ニュー・エイジ』に連載すると評判となり、木下惠介監督、高峰秀子主演で映画化されて大ヒット、ご存じの方も多いのではないでしょうか。。
このころ、『群像』『文芸』『改造』『中央公論』『新日本文学』などに作品を次々と発表しています。
そんななか、昭和31年(1956)『婦人公論』に発表した『岸うつ波』に対して徳永直が『草いきれ』という抗議文を『新潮』に発表したのです。
これに対して栄は、『虚構と虚像』『徳永氏へ』で反論して「草いきれ論争」が勃発しました。
突然の死
『二十四の瞳』以後、栄は新聞、雑誌、婦人雑誌、児童向け雑誌などに引っ張りだことなりました。
昭和36年(1961)10月、軽井沢で急性喘息の発作を起こし、入退院を繰り返す状態となったにもかかわらず、栄は執筆をやめませんでした。
そして昭和42年(1967)6月23日零時五八分、中野区鷺宮の自宅に近い熊谷医院で、激しい発作の中で栄は息を引き取りました。享年66歳。
結核と喘息
近代日本で多くの文人たちの命を奪った病気として、広く知られているのが結核です。
近年、再流行の兆しがあるとして予防キャンペーンが行われているのは、みなさんも目にしたことがあるかもしれません。
その一方で、喘息もまた多くの人々の命を奪ってきました。
この喘息は、ギリシャ古代の医師・ヒポクラテスのころから知られた病気ですが、現在もその治療方法は研究途中といいます。
日本において喘息で死亡した有名人をあげると、政治家の森恪(1932)、作家の中島敦(1942)、政治家の牧野伸憲(1949)、歌人の斎藤茂吉(1953)、阪急電車創業者の小林一三(1957)などと、枚挙にいとまがありません。
そして近年でも年間1,000人前後もの方々が喘息の発作によってなくなっているのです。
私は、坪井栄の作家生命を奪ったのは、もちろん直接は喘息という病気ではあるけれども、世間での喘息に対する認識不足もまた、彼女の死の一因ではないかと考えています。
喘息をもつ人に、慢性的な過労を強いるのは、命を危険にさらす行為といえるでしょう。
私は一刻も早く、喘息の治療法が確立するとともに、社会的認知が広まって、この病気で苦しむ多くの人たちが解放されることを願わずにはおれません。
(この文章は、『国史大辞典』『日本近代文学大事典』『日本児童文学大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(6月22日)
明日(6月24日)
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