7月1日は、昭和7年(1932)に御茶ノ水両国間市外線の直通運転がはじまった日です。
百花繚乱の鋼橋、区間ごとに異なる高架橋と、まさに戦前の鉄道高架橋の集大成となった本路線をじっくりとみてみましょう。
事業の概要
中央線と総武本線を結んで東京の東西を横断する直通線の建設は、明治時代から計画されていましたが、実現には至っていませんでした。
関東大震災からの復興事業でようやく実現することになったのが御茶ノ水両国間市街線で、昭和6年度(1931)から震災恐慌にともなう失業救済事業として建設が行われたのです。
新線の区間は、中央線御茶ノ水駅と総武線両国駅間の約2.7㎞で、中間に秋葉原駅と浅草橋駅が設けられています。
工事は、鉄道省東京第一改良事務所と東京第二改良事務所が担当し、全体を7工区に分割して行いました。
構造設計は昭和5年(1930)に開始、昭和6年(1931)に着工して昭和7年(1932)に完成し、7月1日に直通運転を開始したのです。
デザインの概要
震災復興事業では、道路橋についてみてみると、東京市や鉄道省から帝都復興院(のちに復興局に改組)へと出向した技術者たちの手により、新しいタイプの橋が次々と作られていました。
隅田川の巨大橋梁群や神田川の聖橋とお茶の水橋などが完成して、震災からよみがえった東京に、新しい都市的景観をつくりだしていたのです。
こうした背景のもとで建設された御茶ノ水両国間市街線は、画一的な標準設計よりも、個性的で独創的な構造物の設計を目指したといいます。
また技術面でも、秋葉原駅では、東京上野間市街線(現在の山手線と京浜東北線)をまたぐために、従来の高架橋よりもはるかに高い位置に高架線を建設する必要に迫られました。
そのうえ、震災復興により拡幅された幹線道路をまたぐため、大規模な高架橋が必要とされたのです。
こうして御茶ノ水両国間市街線は、さまざまな鋼橋と、区間ごとに異なる高架橋がつくられたことから、戦前の鉄道高架橋の集大成といってよいでしょう。
御茶ノ水両国間市街地線を歩く
それでは、御茶ノ水駅から東に向かって線路沿いを歩いてみましょう。
線路は、御茶ノ水駅を出ると、中央本線をまたいで分岐し、神田川を斜めに越えます。
これが総武線神田川橋梁で、国内初の鉄骨ラーメン橋脚を用いた橋です。
設計は鉄道省の稲葉権兵衛らで、鋼鈑桁橋に開脚式π型鋼ラーメン橋脚をプラスした独特の構造が採用されました。
開通は昭和7年(1932)で、橋長32.9m、次に見る松住町橋梁と対照的に軽快な橋で、都市景観に見事にマッチしています。
神田川橋梁のすぐ東に見える緑の美しいアーチが松住町架道橋です。
国内の鉄道では初のタイドアーチ橋で、設計は鉄道省の稲葉権兵衛らが行いました。
開通は昭和7年(1932)、幹線道路の昌平橋通りと外堀通りの交差点を斜めに横切ってわたすために、一径間にもかかわらず橋長71.9mという長大な橋です。
鉄道橋では珍しい鋼プレストリブ・タイドアーチ橋を採用したことで、見た目が大変重厚となり、印象的な橋となっています。
松住町架道橋を超えると、秋葉原駅まで高架が続きますが、これが旅籠町高架橋です。
鉄骨鉄筋コンクリート構造で、地面からの高さが焼く12.5mにも達していますが、じつは他に類を見ない特徴的なスタイルが採用されています。
ラーメン高架橋のなかでもビームスラブ式と呼ばれる、柱と梁を基本とする構造に、側面を平らに仕上げたうえ、ハンチに曲線を用いた特徴的なスタイルなのです。
これは、都市景観を意識した設計といえるでしょう。
さらに、1径間ごとに1ブロックを構成して、その間にエクスパンションと呼ばれる単桁を架けて高架下の空間を確保しています。
この空間を店舗として利用できるようにしたため、現在はすっぽりとお店が入って一体化しているのが印象的です。
秋葉原駅の手前に見えるのが、御成街道架道橋です。
上路プレートガーダで、支間37.6mのこの橋は、秋葉原のランドマーク的存在で、テレビなどで紹介される際にはよく登場するので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
秋葉原駅は、東京上野間市街線をまたぐために、地面からの高さが15mにも達しています。
駅の西側を鉄骨鉄筋コンクリートラーメン高架橋、東側の大半で鉄骨ラーメン構造を採用しています。
これは、駅の西側部分の高架下を三階建の建物として利用できるよう設計されたものです。
この部分に戦後はアキハバラデパートが入り、秋葉原を代表する景観となっていました。
なお、秋葉原駅構内で既設線路をまたぐ区間には、鋼ラーメン構造が採用されていますが、これは列車の運転を確保しながら短期間で施工できるメリットを考えてのものでしょう。
また、秋葉原駅東口には、ホームと地上の高低差を考慮して、当時は珍しかったエスカレーターが設置されていました。
秋葉原駅を越えてすぐに見えてくるのが、昭和橋架道橋です。
総武線が昭和通りをまたいで架かっていて、架橋時は一径間の桁橋では断トツの国内最長でした。
設計は田中豊らにより行われましたが、当時の常識をはるかに超える橋長43.7mの鋼鈑桁橋で、開通は昭和3年(1928)です。
ちなみに、数多くの復興橋を手掛けた田中は、スリムで無駄のないこの橋の造形を、「会心作」と懐述していますが、同時に道路を通行する人に圧迫感を与えないように、桁高を低くしたプレートガーダを採用したとも述べています。
こうして、地下には地下鉄銀座線、地上を市電、高架上を東北線、さらにそのはるか上を総武線の昭和橋架道橋が越えていく景観は、「四重鉄道」などと呼ばれて、震災復興で誕生した新しい都市的景観として観光名所にもなったのです。
昭和橋架道橋から東に向かうと、延長およそ285mの第一佐久間町橋高架橋に到着です。
径間16.8mの巨大な鉄筋コンクリート連続アーチが16径間連続する姿はまさに圧巻。
当時としては古風で珍しい鉄筋コンクリートアーチ高架橋を採用したのは、このあたりの地盤が良好だったため、経済性を優先してのものだったといいます。
第一佐久間町橋高架橋から浅草橋駅まで、および浅草橋から隅田川までは、高架橋も次第に低くなり、一般的なビームスラブ式のラーメン高架橋が採用されています。
注目は浅草橋駅部分、ここの構造は、左右のプラットホーム部分をカンチレバー(片持梁)で支え、その下の道路空間を有効に利用できるように考えた構造となっています。
隅田川にかかる隅田川橋梁が美しい姿がみえてきました。
この橋は、鉄道橋としては日本で最初となるランガー橋として、橋梁建築史上名高い名橋ですが、これについては別稿をご覧ください。
まさに戦前鉄道建築の見本市ともいえる御茶ノ水両国間市街線、みなさんも歩いてみてはいかがでしょうか。
(この文章は、『東京鉄道遺産 「鉄道技術の歴史」をめぐる』(ブルーバックスB1817)小野田滋(講談社、2013)、『東京の橋100選+100』紅林章央(都政新報社、2018)を参考に執筆しました。)
きのう(6月30日)
明日(7月2日)
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