羽子板市では美しく華やかな羽子板が数多く並んでいます。
年の瀬の風物詩となっていますが、見とれつつも私の頭の中には大きな疑問を抱かずにはおれません。
あの派手な羽子板は、羽根突きに使えるの?
前回まで羽根突きの歴史を見た結果、この羽子板は「飾り羽子板」とよばれるもので、僻邪の意味を込めて正月に飾る特別な羽子板であるとわかりました。
ですから、羽根突きに使って使えないことはないのですが、極めて扱いにくいとともに、傷んで悲しい気分になるのは間違いありません。
それでは、この美しい飾り羽子板は、どのようにして生まれてきたのでしょうか?
今回は、飾り羽子板誕生までの歴史をたどってみたいと思います。
【浅草羽子板市 目次】 その1:羽子板市の歴史(前編) / その2:羽子板市の歴史(中編) / その3:羽子板市の歴史(後編) / その4:羽根突きしたことありますか? / その5:羽子板ってなに?(後編) / その6:羽子板市に行ってみました① / その7:羽子板市に行ってみました② / その8:ガサ市に行ってみました
羽子板とは?
羽子板は、羽根突きの羽を突く遊具です。
主にキリやカツラ、スギを使った板なのですか、形状が長方形に柄のついた独特の形をしているので、「ああ、あれね」と思い出す方も多いのではないでしょうか。
この羽子板ですが、古くは室町時代の『看聞日記』を見ると、胡鬼板(こぎいた)、羽根を胡鬼子(こきのこ)と呼んでいたのが分かります。
ちなみに「羽子板」という呼び名は、東麓破衲『下学集』や中川喜雲『案内者』にあるように、室町時代末から用いられはじめました。
これが、羽根突きが庶民に広がる江戸時代中期までに一般化したようです。
飾り羽子板の誕生
ちょっと意外ですが、もともと羽子板は笏の形をした細長い板でした(喜雲『私可多咄』)。
もちろん、飾りなどはありませんので、ほとんどただの板という形です。
そしてこれが、江戸の町民文化が発展する過程で大きな変化を見せました。
つまり、形が扱いやすいように現在の柄部分がある「羽子板形」に変化するとともに、色が付けられたり絵が描かれるようになったのです。
こうして江戸時代中期に華やかな彩色を施した左義長羽子板や御所羽子板が登場すると、遊具ではなく縁起物として飾って用いられるようになっていきます。
さらに役者絵を描くものが発展して、羽子板の一面に押絵を施す押絵羽子板が文化・文政頃に登場すると豪華絢爛な飾り羽子板が大いに流行しました。
ちょっと意外ですが、この頃の押絵は浮世絵師が作っていたそうです。
こうして華やかな羽子板が浅草歳の市で大いに人気を博すようになって、羽子板市が誕生したのです(「羽子板市の歴史」参照)。
さらには明治時代になると、華麗な押絵羽子板を商う店が雷門から本堂までびっしりと軒を連ねるまでになり(『東京年中行事』)、東京の年末の風物詩として広く知られるようになりました。
その後、押絵羽子板を専門に作る職人が登場して押絵の技術が発展し、押絵羽子板のほかにも押絵雛や絵馬、屛風などに その技術が応用されたりもしています。
明治時代に人気のあった羽子板をあげると、羽左衛門物、梅幸者、芝翫物といった多種多彩な歌舞伎役者のものが主流でした。
明治43年(1910)には東京市内に羽子板商が45軒、昭和61年(1986)には浅草羽子板市出店数が50余を数えるほど賑わったのです。
そして現在では東京の冬を代表する光景として海外にまで広く知られる行事となっています。
この文章をまとめるにあたって 以下の文献を参考にしました。(敬称略、順不同)
また、文中では敬称を略させていただいております。
参考文献:『看聞日記』(宮内省図書寮編1931~35)、東麓破衲『下学集』室町時代末期、中川喜雲『案内者』江戸中期、齋藤月岑章成編『東都歳時記』須原屋佐助ほか19C初【以上、国立国会図書館】、田沼武能『東京の中の江戸』1983小学館、三谷一馬『江戸職人図聚』1984立風書房、西山松之助・南和男ほか編『江戸学事典』1984弘文堂、小木新造・陣内秀信ほか編『江戸東京学事典』1987三省堂、渡辺信一郎『江戸の生業事典』1997東京堂出版、『日本史事典 三訂版』2000 旺文社、三谷一馬『新編江戸見世屋図聚』2015中央公論社
(中川喜雲『私可多咄』は当該箇所未読で『日本史事典 三訂版』2000に依拠しました。)
【浅草羽子板市 目次】 その1:羽子板市の歴史(前編) / その2:羽子板市の歴史(中編) / その3:羽子板市の歴史(後編) / その4:羽根突きしたことありますか? / その5:羽子板ってどう使うの? / その6:羽子板市に行ってみました① / その7:羽子板市に行ってみました② / その8:ガサ市に行ってみました
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