【ひな祭りの話】:①ひな祭りとは? / ②ひな祭り源流、上巳の節供とは? / ③もう一つのひな祭りの源流、ひひな遊びとは? / ④ひな祭りの誕生 / ⑤現代のひな祭り / ⑥雛流しと流しびな / ⑦雛市と江戸のひな人形とは?
現在、ひな祭りの一部として行われている雛流しですが、この行事の中には日本古来の習慣が隠れています。
そこで今回は、雛流しについてみてみましょう。
まずは前章までで見たひな祭りの誕生を簡単に振り返ってみましょう。
中国由来の上巳の節供が日本独特の祓(はらえ)の思想と結びつき独自に発展してきました。
具体的に見ると、祓では贖物(あがもの)とよばれる人形を使って、その人形を肌身にすりつけたり息を吹きかけたりして自分の罪やけがれを託した後、水辺に棄てて流すというものでした。
この習俗は、『延喜式』にも記される古くからのもので、『源氏物語』須磨で主人公の光源氏が須磨の海岸で上巳の祓を行って人形を海に流したように貴族の間で広く行われるものでした。
このように上巳の祓の人形を流す前に祭る習俗は古代から行われていましたが、室町時代以降この人形が立派なものへと変化していき、流す前に飾り祭る風習が生まれます。
一方で「ひひな遊び」といって、平安時代には女の子がかわいらしい紙でできた人形で遊ぶままごと遊びがありました。
この「ひひな遊び」の様子は、『源氏物語』『栄花物語』『狭衣物語』などに多く描かれています。
「上巳の祓」の道具の人形と「ひひな遊び」の「ひひな」とは全く別のものでしたが、江戸時代の初めに二つが融合してひな祭りが誕生します。
この頃にはひな祭りには紙でできた人形を用いていましたので、ひな祭りで飾った後でも子供がおもちゃにして遊ぶこともできましたし、けがれを付けて流して捨てることもできました。
しかし、時代が下るにつれてひな人形に変化が表れ始めます。
「ひひな」の要素が強く残ったものは次第に豪華で複雑なものとなり、現在のひな人形へと発展してきます。
反対に、上巳の祓の人形としての要素を残し、ひな祭りの後に流して捨てるものは、この頃の紙人形のまま残ることとなります。
今でも鳥取県ではナガシビナといって、3月3日の夕方、桟俵(さんだわら)に紙で作った雛人形を供物と一緒にのせて川に流す行事が残っています。
また、和歌山県にも男女二体の雛を川に流す習俗が残ります。
これらは身の穢や災厄を人形に託して払うという上巳の祓の要素を色濃く残す行事と言えるでしょう。
これは、6月晦日の夏越しの祓の人形と同じ意味合いを持つもので、ともに古代からの伝統を受け継ぐ風習なのです。
江戸でも、3月4日にはひな人形ではなく、ひな祭りの供え物を掘割などに流す風習が広く定着していました。
なかでも、隅田川では盛んにおこなわれ、春の風物詩として親しまれていました。
この伝統は現在にも受け継がれ、例年3月初めの日曜日に、浅草の隅田川畔で流しびなが行われています。
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