名前のない橋の誕生 佐賀町の橋④

前回まで元木場(佐賀)の町と中之堀川の歴史を見てきました。

今回は、いよいよこの橋の誕生を見てみましょう。

中野堀川と人道橋の画像。

こうした中、大正12年(1923)9月1日、深川の街を関東大震災が襲います。

震災の劫火と高潮によって深川全体が壊滅的な被害を受けましたが、元木場についても同様でした。

町屋や工場群は壊滅し、一面の焼け野が原となったのです。

震災復興にあたって、仙台堀川河口の上之橋や油堀川河口の下之橋とおなじく、中之堀川の中之橋も立派な橋梁が架けられました。

しかし、震災を機に一気に工場の近代化と大規模化が進んでこのあたりは工場用地としては手狭となります。

外洋船が直接接岸できる川崎扇島や鶴見へと移転する工場が多く、かわりに多くの倉庫が立ち並ぶことになったのです。

そしてこの頃、深川の堀川には倉庫をつなぐ作業用の簡易な人道橋があちこちに造られました。

その中の一つが、今回の橋とみられ、おそらく震災復興期に大量に建造された橋の一つなのでしょう。

昭和11年の空中写真をみると、ネガの傷と重なって少し見辛くなっていますが、現在地と同じ位置に人道橋が建設されているのが確認できます。

昭和11年空中写真(B4-C6-97)【部分】の画像。
【昭和11年空中写真(B4-C6-97)〔部分〕】
昭和22年空中写真(USA-M377-69)【部分】の画像。
【昭和22年空中写真(USA-M377-69)〔部分〕】

こうした状況の中で、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲を迎えます。

アメリカ軍B29爆撃機344機による東京への夜間焼夷弾爆撃により、元木場周辺は甚大な被害を受け、多くの死傷者を出しました。

川沿いに並んでいた倉庫群も大きな被害を受けて終戦を迎えたとされていますが、昭和22年撮影の空中写真をみると、黒っぽく映る大型倉庫の半数ほどは延焼を免れているようです。

そして、今回見ている橋も大きな損傷を免れて残存していることから、戦後復興を支えていくこととなりました。

とはいえ、空襲前には元木場は町屋と倉庫が混在する町でしたが、戦後復興において、町屋地域は少なくなって、川沿いの大半が倉庫街となっていきます。

中之堀川に架かる人道橋の画像。

その後、高度経済成長によって日本の産業構造が大きく変化するとともに、水上から陸上へと輸送経路も切り替わります。

こうした変化の影響は深川地域全体に及んで、昭和50年(1975)に油堀川が首都高速建設用地となって埋め立てられたのをはじめ、地域の堀川が次々と姿を消していきました。

仙台堀の上之橋も姿を消して、親柱だけが現地で保存されています。

中之堀川についても例外ではなく、早くも戦後の区画整理で隅田川に接する部分が埋め立てられて道路となり、中之橋は取り払われました。

現在の上之橋の画像。
【仙台堀川河口に架かっていた上之橋の親柱】

その後も中之堀川は揚水場建設や公園の用地(中の堀公園)への変更などで次々と埋め立てが進み、逆S字形だったものがL字形に姿を変えて、隅田川に届かない堀留となったのです。

中の堀川水門の画像。

さらに近年、IT革命などの産業構造の変化によって、川沿いに並んでいた倉庫群もオフィスビルや集合住宅へと姿を変えつつある今、中之堀川は水路としての役割を終え、新しい姿に生まれ変わりつつあります。

平成末頃の中之堀川江東区・豊島橋案内板に掲示されていた航空写真で見ることができます。

赤○部分が豊島橋で、そこから左に流れるのが中之堀川で、川口になる中の堀水門もその役目を終えました。

そして、今回の人道橋もその役割を終えて、静かに終わりの時を待っているのです。

橋は人やモノの移動を助けるものですので、その必要がなくなれば存在意義を失うのは、ある意味仕方がないことかもしれません。

しかし、関東大震災からの復興期の深川の風景をとどめるこの橋の記憶だけでも、なんとか留めておきたいものです。

この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました。(順不同敬称略)

また、文中では敬称を省略させていただきました。

石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』1977新人物往来社、

伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』1986 鹿島出版会、

東京都建設局道路管理部道路橋梁課編『東京の橋と景観(改訂版)』1987東京都情報連絡室情報公開部都民情報課、

街と暮らし社編『江戸・東京文庫① 江戸・東京 歴史の散歩道1』1999 街と暮らし社、

紅林章央『東京の橋 100選+100』2018都政新報社

次回は地下鉄丸ノ内線神田川橋梁です。

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