【花見と桜の歴史】①花見の謎、桜の罠?/②花と言えば梅?桜?/③「花は桜木 人は武士」/④花見の革命/⑤花見は幕府の陰謀?/⑥花見の完成
前回見たように、日本では伝統的に民俗行事として花見が行われていましたが、これとは意味合いが違う花見が平安時代初めに中国から伝わってきます。
今回はこれを見てみましょう。
貴族が集まって春には梅、秋には萩を愛でて歌会を開くことが広く行われていました。
一例をあげると、現代の年号「令和」が『万葉集』に掲載された天平二年(730)に大伴旅人たちが開いた梅花の宴に由来することはよく知られています。
さらに詳しく『万葉集』に掲載された歌を見ると、花では梅が最も多く、これに萩が続きます。
そんな中、『日本後記』弘仁3年(812)2月12日条に神泉苑で花を見て文人に詩を作らせたことが記されています。
この行事は、中国の行事を模して行われたのですが、元になった中国の行事というのが梅の花の下で酒宴を開くというものでした。
それは、梅には花の精がいて、これと共に過ごしてその精気を吸い体に取り込むことで健康と長寿が得られるという考えによるもの。
ですから、見る花はもちろん梅ですし、酒は欠かせないものでした。
これが日本でも儀礼化して節日となり、宮中行事の「花の宴」として形が整えられていきます。
ただし、「花の宴」のいう花は、やはり当初は桜ではなく梅でした。
それでは、花の代表が梅から桜に変わったのはいつからでしょうか?
その早い例として御所の紫宸殿前庭の変化が挙げられます。
「左近の桜 右近の橘」も、元来は桜ではなく梅でした。
そして梅から桜に変わったのは桓武天皇の時代(在位781~806)と言われています。
さらに代表的な花が梅から桜へと移ったことを表すのが『古今和歌集』(延喜5年(905)成立)です。
人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほいける 紀貫之
世の中に耐えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 在原業平
ひさかたの光のどけき春の日に しづごころなく花の散るらむ 紀友則
といったように、桜をモチーフとした歌が多く選ばれています。
このような状況がさらに進んで、『新古今和歌集』(建仁元年(1201)成立)では花と言えば完全に桜を指すようになりました。
例えば、「願はくははなのもとにて春死なむ そのきさらぎの望月の比」と詠むほど桜を愛した歌人・西行(1118~90)の歌が先の歌を含めて『新古今和歌集』に最も多い94首が選ばれています。
また、『万葉集』所載の山部赤人の歌が、「ももしきの大宮人はいとまあれや 梅をかざしてここに集える」から「百敷の大宮人は暇あれや 桜かざして今日も暮しつ」と『新古今和歌集』で改作されて引かれていることは象徴的な事例。
こうして最も愛される花が梅から桜へと変わる状況でしたので、宮中行事の花の宴でも愛でる花が梅から桜へと変化します。
桜を愛でる花の宴が盛んに行われたことは、『源氏物語』を見れば良く分かると思います。
例えば花の宴は「薄雲」や「須磨」など、たびたびその光景が描かれていますし、五十四帖のうちの巻名の一つにまでなっています。
このように、平安時代以降の貴族は花を見て歌を詠み遊び戯れるのが大好きでした。
春になると宮中行事としての花の宴をはじめ、公私にわたって盛んに花見を行くようになったのです。
この貴族の花見の影響もあり、武家でも盛んに花見が行われました。
次回はこの武家の花見についてみてみましょう。
【花見と桜の歴史】①花見の謎、桜の罠?/②花と言えば梅?桜?/③「花は桜木 人は武士」/④花見の革命/⑤花見は幕府の陰謀?/⑥花見の完成
コメントを残す