【花見と桜の歴史】①花見の謎、桜の罠?/②花と言えば梅?桜?/③「花は桜木 人は武士」/④花見の革命/⑤花見は幕府の陰謀?/⑥花見の完成
前回まで見てきたように、中世には、貴族階級、武士階級、庶民のそれぞれが階級に応じて桜の花を愛でて楽しんでいました。
現代では花見と言えば桜の花の下での宴会、お酒の入る無礼講というもので、これは中世の花見とは全く異なるものです。
では、現在の花見はいつ、どのように生まれたのでしょうか?
それでは現代の花見の誕生について見ていきましょう。
江戸時代後期までは、花見と言えば大きな桜の木の「一本桜」を見るものでした。
江戸には幹回りが三間以上もある桜の大木が33本あり、三十三桜と呼ばれる名所だったのです。
一本桜は数名で花を見て歩くスタイルで鑑賞するのが主流。
ですので、宴を開く場合は、桜が見える室内で行っていました。
時代が進み、文化文政頃から一本桜から並木桜を見るスタイルへと大きく変化します。
『明和誌』(文政5年(1822)刊行)に「寛政頃より手習師匠、春花盛のころ、上野・浅草・向島・王子・日ぐらし・御殿山へ弟子をつれ、子供の髪には造花をさゝせ、手拭のそろひをゑりにまかせ、遊びあるく、皆親々もつれ立行。明和安永までは見かけざる事なり。」と記されています。
このように、手習いの師匠が、子供の頭には造花を差し、揃いの手ぬぐいを襟に巻くという趣向を凝らして弟子とその親を連れて花見に行っていたのでした。
そして、ここでは花を観賞するよりも遊びあるく方が優先されているのがわかるでしょうか。
このように、数人で静かに桜の花を観賞するスタイルから大人数の団体で花見をするスタイルに変わったことで、花見には広い場所が必要となっていきます。
また、多くの団体が花見を楽しむわけですから、いかに巨木でも桜が一本では足りず、桜並木による広い場所が必要になりました。
こうして上野、小金井、飛鳥山など、現代にまで続く多くの桜の名所が誕生したのです。ここに、花の下に茣蓙を敷き、仕出しや手料理を持ち寄って酒とともに楽しむ、という花見のスタイルが完成したのです。
こうして古典落語の「長屋の花見」や「花見酒」のような花見の宴が江戸や上方の都市部で春の風物詩として欠かせないものになったのでした。
さらに、先ほど見た手習い師匠一行のように、子供たちの髪に造花を差したり そろいの手ぬぐいをそろえるなどの趣向を凝らして遊びあるくという風に花を見るよりも娯楽を楽しむ傾向が強まるのがわかります。
このように花に加えて花見客の趣向や服装を見る客も加わるようになると、花見の名所には多くの客が集まるようになったのでした。
そうすると、自然と客を当て込んだイベントが行われるようになります。
このイベントですが、花の下で歌や俳句を楽しむ優雅なものもありましたが、人気はやはり歌ったり踊ったりするにぎやかなものだったのです。
古典落語の「花見の仇討」のように多くの観客を前に余興で目立つといったことも行われました。
こうして、江戸時代の後期には花見は江戸の春に欠かせない風物詩として江戸っ子からの熱い支持を得るようになりました。
しかしここで疑問がわきます。かなりの費用が掛かるのに、誰が何のために桜並木を整備したのでしょうか?
次回はこの謎に迫りたいと思います。
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