前回は東京で車も通れる橋としては現役最年長の南高橋の現況を見た結果、なぜここにこれほど古い橋があるのか、という疑問に行き当たりました。
そこで今回は、南高橋の歴史についてみていきたいと思います。
大正12年(1923)9月1日午前11時58分に発生した関東大震災によって、東京の町は壊滅的被害を受けたのは、ご存じでしょうか。
多くの人命が失われ、下町を中心に一面の焼け野が原と化し、多くの橋が焼け落ちたのです。
国はこの未曾有の災害からの復興を、社会インフラに集中して投資することで加速させようと考えます。
なかでも、隅田川には巨大な橋が次々と架橋されるなど、復興には橋梁の整備に特に力が注がれることとなりました。
これは、橋の整備が当時の主な輸送手段だった船舶による輸送と、拡大しつつあった陸上交通の両方に役立つものと考えられたのです。
「復興は橋から」という掛け声も生まれる状況で、河川交通と道路交通が一気に整備されていきました。
そんな中、神田川の支流にあたる日本橋川が河口近くで南に分流したのが亀島川では、当初は前回で触れた高橋、霊巌橋、亀島橋、新亀島橋という四つの橋を整備する計画でした。
しかし震災復興が進むにつれて亀島川河口付近に大企業の巨大な倉庫がたちならぶ状況となり、急遽計画を変更してこの付近を整備する必要が生まれます。
その整備の一環で、船への積み下ろしの便を計るために急遽、亀島川河口に新しく橋を架けることになりました。
ところが、復興事業を担う国の機関、復興局は昭和5年(1930)4月1日で廃止、後継の復興事業事務局も昭和7年(1932)4月1日をもって廃止されてしまっています。
そのため事業は東京市が担当するしかなく、しかも復興事業が昭和5年に終了しており、建設費用がありません。
この状況で船運のため航路や岸壁の整備も一体で行うのですから、橋にも一定の規模が求められます。
安く、早く、しかも大きな橋を架けるという難問が東京市に降りかかってしまいました。
東京市の誰が、どのように、この難問の答えを見出したのかはわかっていませんが、その答えが、当時スクラップとなる運命だったかつての両国橋(明治37年架橋:写真参照)の中央径間をそのまま再利用するという仰天プランだったのです。
ただし、このプランには、復興時に決めた基本的ルール、隅田川にそそぐ川の河口の橋は美観を重視して、右岸はアーチ橋(例えば、神田川河口の柳橋:写真下)、左岸はトラス橋とする基本原則から逸脱してしまうという問題が。
いうなれば禁じ手、最後の最後でルールを破る、というなんともやり切れないアイデアでもありました。
しかし追い詰められた当時の東京市には、この禁じ手を取るよりほかなかったのです。
ここまでした結果はというと・・・南高橋の建造費は114,048円、1㎡あたり164円でした。
この数字はかなり驚異的です。
1㎡あたり建造費で見ると、条件の似た神田川の柳橋(写真上)が287円、日本橋川の豊海橋が515円、小名木川の萬年橋が392円、仙台堀川の上之橋が287円などと比べると、まさに破格、そのすごさが分かります。
工期は1年3ヶ月と普通ですが、橋台から新しく作ったことを考えると目標はクリアしているといっていいでしょう。
復興事業の末期に降ってわいた難問に、離れ業で挑んだ結果は、予想以上の結果を得るところになりました。
なぜこれほど安上がりにできたのでしょうか?
次回からはこの謎に迫りたいと思います。
コメントを残す