前回まで見てきた積年の謎を解くために、言問橋の歴史をたどってきました。
今回はゲルバーとは何かを解明したいと思います。
近代以降、次々と新しいデザインや構造の橋が生み出されました。
そこで、これらの橋の構造形式の名称に、初めて設計した技術者の名前を付けたのです。
例えば、日本橋川に架かる豊海橋のフィーレンデールはベルギー人、総武線隅田川橋梁のランガーはオーストリア人、奥多摩の三頭橋のニールセンローゼはスウェーデン人の名がつけられているのです。
そしてこのゲルバー橋は、もちろん悪の秘密組織などではなく、ドイツ人ハインリッヒ・ゲルバー(Heinrich Gerber)が1886年に考案した橋の構造形式です。
どんな橋かというと、橋の両側に橋台や橋脚で真中に向けて突き出るようにしっかりした桁を造って、その真ん中の隙間に中央の橋桁をポンと置くだけ、というもの。
幼児たちがよく、ブロックでこの形式の橋を作っているのを見かけるような、ある意味単純な構造の橋です。
復興事務局編『帝都復興事業誌 土木篇(上巻)』の言問橋の一般図を見ると、よくわかるかもしれません。
ちょっと見にくいですが橋脚の内側に斜めに継ぎ目が入っているのがわかるでしょうか?
ゲルバー橋は、真中を載せただけの構造なので 結構自由が効くので、軟弱地盤で橋が不均等に沈んだ場合などに対応しやすいというのが最大の利点。
そこがまさに、言問橋にピッタリだったのですね。
復興事務局編『帝都復興事業誌、土木篇(上巻)』に建設中の言問橋の写真をみつけしました。
後ろの橋脚には桁が既に乗せられていて、その先端下半には突起が付けられています。
艀?にのせられたものとクレーンで吊り上げられているものが橋の中央部分で、これから橋脚上の桁の隙間にはめ込む作業をしているところのようです。
そして桁の先端部は、上半が出っ張った形をしているのがわかるでしょうか?
大きさが大きさなので、据えるのも大変そう、小型の木造和船を使った工事は今では絶対にみられない光景です。
実際、言問橋を見てみると、両方の橋桁の内側に、橋桁の継ぎ目がくっきりと分かります。
さすがにのっけただけでは心もとないようで、現在はワイヤーでつなぐ補強が行われていました。
言問橋の謳い文句のうち「ゲルバー」が分かったところで、今度は「絶景」の方を見てみましょう。
隅田川の向島側は、前回に見たように江戸時代からの桜の名所・墨堤で、橋はその真中を突っ切る形になっています。
そこで、橋の建設は墨堤を整備して公園化する事業と一体で行われることとなり、復興事業の目玉とされることになりました。
復興調査協会編『帝都復興史・附横浜復興記念史 第1巻』に掲載された隅田公園の写真を見ると見事な日本庭園が整備されたことがわかります。
写真の奥に壁がまだない建設中の建物が、牛島神社の本殿でしょうか。
写真からは復興三大庭園のひとつと呼ばれるほどの、かなり気合の入った整備を行っているのがうかがえます。
今戸側の整備も同時に行われました。復興局編『復興事業進捗状況 昭和5年12月末現況』を見ると、山谷堀川の向こう側もきれいに整備されているのがわかります。
このように、言問橋が墨田川両岸の公園と一体のものと考えられたことがよくわかります。
その一方で、言問橋は、震災復興事業で初めて架けられた橋で、同類の永代、清洲、蔵前の新設橋は早々と構造が決まって工事が進んでいく中で、なかなかどういう橋にするのかが決まりません。
そのため、震災前の橋が機能していた両国橋ととともに、設計が後回しにされてしまいます。
それは、復興事業の目玉としての重圧だけでなく、橋が造られる場所の地盤に恵まれなかったのが原因でした。
というのも、橋の建設地の周辺地盤が良くないので蔵前橋のような上路式アーチ橋は架けられず、一方で永代橋のような下路式の橋にするとアーチ構造が目立ってしまい隣接する隅田公園の景観を損なってしまう、という難問なのです。
東京市政調査会「隅田公園」『帝都復興事業概観』ではちょっと見えにくいですが、鳥観図にある橋は、蔵前橋に似た形状です。
そこで、当初採用する予定のなかった新しい構造の橋でこの難問に立ち向かいます。
そうして支間長63メートルという、当時としては化け物のような鋼鉄製のゲルバー鈑桁橋が選択されました。
というのも当時の国内では、桁橋は支間長20m程度が最大で、63mはまさに規格外、超ド級の大きさでした。
このことは、復興局橋梁課長の田中豊が自ら「かなり大胆な設計」と評した冒険的ともいえる選択だったのです。
しかし、田中は、これからの橋は桁橋が主流になるとみて、この大胆な橋の建設を押し進めました。
一方で景観については、復興局土木部長の太田円三は、「稍大膽な計画でありますが、此の形が持つなだらかな線は、付近の公園とよく調和するだろうと思われます。」と自信満々のコメントを残しています。
完成した言問橋は、隅田公園に遠慮して親柱をひどく小さいものに代え、しかも橋名板を取り付けた門柱上には行灯状の橋灯に代えるなどして、橋自体が目立ち過ぎない計画通りのものになりました。
その橋灯も、戦時中の金属供出で失われて、この橋は地味さに輪をかけることになります。
現在でも建設プレートは橋の袂部分に取り付けられて残っています【写真参照】。
当時としてはけた外れの大きさを誇った「近代式の言問橋」は、まさに「見よ!ゲルバーの威容!」なのです。
そして、隅田公園との調和した光景は復興した東京を代表する名所となって、まさに「墨田の美観!大東京の絶景!」になりました。
まさにあの謳い文句そのままの名所になったのです。
完成した言問橋と隅田公園の美観は震災からの復興を象徴する光景として、震災復興の成果を巡察する中で、昭和天皇が御幸されています。
次回では、地味に見えて実はすごい、言問橋の秘密を探ってみたいと思います。
コメントを残す