前回では鎧橋に隠された謎を偶然にも見つけることができました。
この謎を解くために、そもそも鎧橋があるところがどういう場所なのか、確認することから始めましょう。
鎧橋は日本橋川を渡って中央区茅場町1丁目〜日本橋小網町を結ぶ橋で、上流側は近い順に、江戸橋、日本橋が架かっています。
そして鎧橋の名は、この場所にあった「鎧の渡し」の名前にちなんでいるのです。
この渡しは、歌川広重「江都勝景 よロゐの渡し」で描かれたように、多くの荷物や人が行きかう大変賑やかな渡しでした。
鎧の渡しの名の由来は次のように伝えられています。
永承年間(1046~53年)に源義家が奥州征伐の際、この場所を流れていた大きな川(あるいは入江ともいわれます)を渡ろうとしました。
折り悪く暴風で波が高く渡ることができなかったので、自らの鎧を水へ投げ入れて神護を祈願したところ、風波が鎮まって、ようやく無事に対岸へ渡ることができた、というものです。
この鎧の渡しがあった場所は、江戸の港湾施設があった霊岸島と、商業の中心地であった日本橋周辺を結ぶ位置にありました。
蔵が立ち並ぶこの場所は、日本橋川が湾曲する箇所なので水面が広く見えることや先の伝説とあいまって、浮世絵の題材になる名所として江戸っ子の人気を博したのです。
歌川広重の描く「江戸名所百景 鎧の渡 小網町」では、両岸に蔵が立ち並ぶ壮観のなかに、渡し船やこれを眺める女性を描いているのって、まさに観光ポスター!
この渡し場にはじめて橋を架けたのは、江戸を代表する豪商たちでした。
『明治事物起源』には鎧橋架設について以下のように記されています。
「明治5年、三井、小野、島田の三名、自費を以て茅場町と小網町との間になる鎧の渡しを木橋に改め鎧橋とす。 開化にも似合わぬ名あり鎧橋。」
この橋は写真に記録されています(『東京株式取引所』昭和8年)が、 確かにまるで江戸時代の木橋のように見えますね。
また、東京府『請願伺留』を見ると兜町地主三井八郎右衛門、同次郎右衛門、三野村利左衛門ら七名の連名で願書が差し出されていて、さらに詳しい内容がわかります。
長文なので、現代風にして要約してみました。
「兜町地主三井八郎右衛門、三野村利左衛門ほか五人が申し上げます。鎧の渡しに新しく橋を架ける件ですが、長さ四十間、幅四間と橋台の石垣を造る申請通り許可くださってありがとうございます。さっそく工事に取り掛かって、この度完成いたしました。しかし、通行しやすくしたところ、申請したよりも石垣の幅が広くなってしまいました。このことをご報告しますので、許可してください。また、新しい橋の名前を鎧橋にしたいと思いますので、こちらも承認してください。」
さらに、鎧橋の開通について新聞でも報道されています。
「三井小野島田等自費で鎧橋架設 兜町より小網町へ従来鎧の渡しと唱えし舟渡しありしを、今般三井小野島田の三家自費を以て、新に大橋を造架し、之を鎧橋と名づく。大木巨財堅牢を極む。その功すでに落成し、十一月二十七日より始めて通行を開けり。噫々普く世人の便を得る。その徳量るべからず。」【東京日々新聞 明治5年11月18日】
そうです、私が見た石垣は、三井、小野、島田という江戸を代表する豪商が架けた、最初の鎧橋のものだったのです。
これが、江戸時代の護岸だった石垣に被さるように造られた石垣の正体だったのです。
そして江戸時代の石垣というのが、歌川広重「江戸名所図会 鎧の渡し」の右下に描かれている石垣なのです!
ではなぜ豪商たちはこの場所に橋を架けたのでしょうか?
次回ではこの謎を解明しましょう。
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