前回見たように、関東大震災から不死鳥のごとく復活した洲崎遊郭は、再び繁栄を謳歌することになります。
「現在(昭和12年)の洲崎」『洲崎の栞』(昭和12年洲崎三業組合 国立国会図書館デジタルコレクション)を見ると、建物がぎっしりと建てられてて大いににぎわっている様子がうかがえます。
その後、第二次世界大戦により国内事情が悪化したことによって、昭和18年(1943)には洲崎遊廓の閉鎖令が下され、跡地は軍需工場等に転用されてしまいます。
昭和11年の宮中写真をみると、黒く映る瓦屋根の建築物がぎっしりと建ち並び、その中に遊郭特有の「ロ」字形の建物が数多く確認できます。
そして昭和20年(1945)3月の東京大空襲で洲崎はほぼ完全に灰燼に帰し壊滅しました。
昭和22年の空中写真をみると、病院など鉄筋コンクリートの建物を除いて、ほとんど建物が見られない状態ですが、よく見ると、はやくも低層のブリキ屋根らしき建築物が建て始められているのが確認できるでしょう。
ところが、第二次世界大戦終結後からわずか半年で洲崎遊廓は、「洲崎パラダイス」の愛称で復興します。その規模と海に近く風光明媚で風情があることから、吉原以上の人気を誇る歓楽街として三度目の隆盛を極めることになります。
昭和31年の空中写真をみると、ほぼ建物が並ぶまでになった様子が確認できると思います。
かつて見られた「ロ」字形の建物は数棟しか見られませんが、横に長い大型木造建築物がそこここに並んでいて、これが洲崎パラダイスの関連施設なのでしょう。
しかしこの洲崎遊郭の繁栄は、突如終わりを迎えることになります。
昭和33年(1958)4月1日に売春防止法が施工され、ここに洲崎遊郭は約70年の歴史に幕を下ろしたのです。
昭和38年の空中写真をみると、旧洲崎遊郭内にはびっしりと低層の木造建築が並んでいるのが確認できるものの、病院を始め遊郭の施設が残っているのが見て取れます。
昭和50年の空中写真をみると、ついに洲崎川の埋め立て工事が始まって、川が姿を消しているのが分かるでしょう。
昭和38年空中写真(MKT636-C9-25)【部分】 昭和41年空中写真(MKT712X-C7-10)【部分】 昭和50年空中写真(CKT7415-C30-48)【部分】
こうして遊郭がなくなると、町は急速に住宅街へと変化してかつての歓楽街がうそのような静かな住宅地へと変貌を遂げたのです。
開業したころの遊郭の様子を伝える「洲崎弁天町遊郭真図」『洲崎の栞』(昭和12年洲崎三業組合 国立国会図書館デジタルコレクション)をみても、同じ場所とは思えません。
ここで話を弁天橋に戻しましょう。
洲崎遊郭で働く女性たちは、未来が見えない過酷な労働環境の中で、救いの手を神仏にすがるほかありませんでした。
そこで、遊郭に隣接する洲崎神社が弁天様を祀ることから、彼女たちの信仰を大いに集めるようになります。
わずかに神社詣でが許される機会もあり、数多くの女性が弁天橋を渡って洲崎神社を参拝したのです。
赤い鳥居の洲崎神社、その裏側にある弁天橋からは神社の杜が目の前でした。
改めて見てみると、洲崎川は埋め立てられて、入り口だった洲崎橋もすでになく、洲崎遊郭の建物は老朽化などによってほとんどが失われました。
そして今、わずかに残った弁天橋もその役目を静かに終えようとしています。
橋は通行者の安全を守ることが第一、昭和7年(1932)に震災復興で架けられた弁天橋も90年近い齢を重ねています。
しかも東京大空襲の劫火をかいくぐってのことですので、私から見ても限界に近いことがわかります。
橋マニアの私としては、弁天橋に心からお疲れ様の言葉で長年の労をねぎらうと共に、深い感謝を伝えたいと思います。
そして、この橋の記憶が、少しでも次世代に引き継がれることを望まずにはいられません。
【この文章を書き上げた報告に現地を再訪したところ、橋の解体工事がちょうど始まりました。改めて弁天橋に心からのねぎらいと感謝を伝え、お別れしました。】
この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました。(順不同敬称略)
また、文中では敬称を省略させていただきました。
石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』1977新人物往来社、伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』1986 鹿島出版会、東京都建設局道路管理部道路橋梁課編『東京の橋と景観(改訂版)』1987東京都情報連絡室情報公開部都民情報課、街と暮らし社編『江戸・東京文庫① 江戸・東京 歴史の散歩道1』1999 街と暮らし社、紅林章央『東京の橋 100選+100』2018都政新報社
次回は江東区佐賀町の橋です。
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